静まりの時 2022年4月1日(金)
ヨハネ15・1~5
「・・・わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
(ヨハネ15・5、新改訳2017)
父なる神さまはぶどう園の農夫、ご自身はぶどうの木、私たちイエスさまを信じる者はその枝である、とイエスさまは言われました。そしてその枝に実が結ばれるために、農夫が枝を刈り込むように、私たちも刈り込みされる、口語訳では「手入れをしてこれをきれいになさる」、原文では「きよくする」(ギリシャ語:カタリゾー)。農夫が見て枝の成長を妨げる不必要なものを取り除き、豊かに実を結ぶように手入れをする、そのように、信仰生活の中では、農夫である父なる神さまが試練の時を与えて、やがて豊かな実を結ぶ者にしてくださる、というのです。
試練のない信仰生活はありません。それは信仰の道を歩み始めると、とたんに苦しみや困難がやって来るということではありません。そもそも人生自体に試練のないものはないのです。信仰を持つ前は、それらはただの苦しみや困難でした。その中でもがくしかなかったのです。しかし信仰をいただいてから、その苦しみや困難を、試練としてとらえるようにしていただいた、ということでしょう。
苦しみに出会うと、ただ嫌だな、としか思えなかった人生から、この刈り込みを通していったいどんな実を結ばせてくださるだろうか、という期待の時ととらえることのできる人生となったのです。これは大きな変化です。
ただそのためには、枝が幹にしっかりととどまらなければなりません。
このとどまると訳されいる言葉は、共同訳2018などでは「つながる」と訳されています。ギリシャ語では「メノー」ということばで、メノーなかにとどまる(目の中にとどまる)といって神学校では暗記したものです。岩隈直の辞書からいくつか意味を拾ってみると「留まる、離れないでいる、滞在する、宿る、住む、引き続きいる、~のままでいる、いつまでも(相変わらず)~である、存(永)続する、いつまでもある、なくならない、生きながらえる、待ち続ける、待つ」などとありました。
ここではイエスさまを信じるということだと思いますが、それをつながる、とか、とどまる、ということばで、聖書は表現しているということでしょう。
キリスト教信仰に生きるためには、聖書やキリスト教信仰の教理の知識、教会生活が必要だと思います。しかしそれがあれば十分かと言えばそうではないと思います。日々の生活の中で、イエスさまにとどまっている、イエスさまがとどまっていてくださる、その豊かなイエスさまとの交わりは不可欠です。そしてそのイエスさまとの交わりの中で、自らが刈り込みをされる、ということが大切なのだと思います。
多くの実を結ぶ、といわれました。ここで実とは何か。どのように想像してもよいのだと思いますが、やはり自分自身の変革であり人間的な成長ではないでしょうか。御霊の実としてパウロは
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」(ガラテヤ5・22,23)
と語りました。どんなに聖書的知識やキリスト教の知識が深くても、またどんなに教会生活の経験が長くて豊かでも、その生き方の中にこれらの実が結ばれていないとすれば、天の御国で「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25・21)との言葉が期待できるのだろうか、と思います。
カール・バルトだったでしょうか、20世紀最大の神学者と言われる人物ですが、あるとき夢を見たといいます。天国の門を通り抜け、道を進んでいます。おびただしい数の天使たちが花道を作っていてくれます。その道を、自らが書き表した膨大な量の書物をカートに載せて、胸を張って進んでいます。誇らしい気持ちです。自分が地上で結んだと思う実、この場合、膨大な量の著作ということでしょう、それを誇らしげに携えて神さまの前に進むのです。そのうちかすかに何かが聞こえてきました。耳を澄ませると、それは笑い声でした、あちらこちらからくすくすという笑い声が聞こえてきたのです。やがてそれは大きな笑い声となりました。その笑いは、自らの書物を誇る自分への笑いのように聞こえます。そこで目が覚めました。汗をびっしょりとかいていたとか。
中世の神学者トマス・アクィナスは『神学大全』という大変重要な書物を書き著していますが、これは未完に終わっています。未完に終わっているというところが、自らの知識を超えた神さまの存在に出会っている、ということなのでしょう。もうこれ以上神さまのすばらしさを書き表すことなんかできないよ~、や~めた、これからはただ神さまを賛美して毎日を暮らそう!、という感じでしょうか。
地上で目に見えるものを「実」としてしまうとむなしい人生になるようです。偉業をなすよりも一人の人を愛することのほうが、あるいは今日一日を喜びを持って暮らすことが、神さまの目には豊かな実なのですね。
豊かな実を結ぶためには、幹にとどまること、すなわちイエスさまにとどまり続けること、です。実を結ぼうと躍起になるのではなく、一所懸命にイエスさまにとどまること、それさえあれば、おのずと実を結ぶ人生となるのです。
昨年の発症から8か月が経過しました。各教会の総会、そして団体の総会も終わりホッとしています。団体総会終了後に、私の姿を眺めていた方々から心配のお声をいただきました。自分ではあまり感じていないのですが、以前からずいぶん痩せていることを心配されたようです。確かに発症前より約5キロほど体重は減っています。主治医からはその体重を維持しなさい、といわれているので、それでよいと思っていますが、少しは太ってもよいのかもしれません。ただそのような心配のお声から今一度自分の奉仕の在り方を考えることになりました。それはまた自分の人生を考えることでもありました。それで団体関係の奉仕を少しセーブしていただくようにお願いし受理していただくことになりました。この春からは他教会への奉仕が縮小されます。その分他の先生の奉仕が増えるので心苦しいことではあります。団体の財務委員会の奉仕は、それほど苦でないということもありますが、続いていくようです。
ただ担任教会の奉仕も十分にできないので心苦しく思っています。召されてそれまでの仕事を退職し神学校に学び教会に遣わされたのですが、それ以来ずっと変わらず「自分の奉仕は足りない」という自分をさいなむこころがあります。病気からの快復時に奉仕の継続をお願いしてしまいましたが、教会の状況からすれば、もっと精力的に奉仕する牧師が必要だと思っています。教会からの、説教だけしてくださればいい、ということばに甘えていますが、この密月(笑)にも徐々に終わりが見えてくることでしょう。伝道者としての人生が終わりつつあるのかもしれません。
そんなこともあり妻と旅に出かけました。旅先の教会(広島ですが)では突然の訪問にもかかわらず牧師先生が時間を割いて教会堂や教会の歴史の説明をしてくださり良い交わりの時をいただきました。昨年の突然の看病、教会の未経験の奉仕、と続き、このところ塞ぐ気持ちをかかえた妻とともによい慰めとなりました。
日本基督教団流川教会にて
雲と霧の宮嶋、鳥居は修復中とか