思い直して信じること

静まりの時 2022年3月31日(木)
マタイ21・28~32

「ところで、あなたがたはどう思いますか。
 ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」
 彼らは言った。「兄です。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」

(マタイ21・28~32、新改訳2017)

 ぶどう園に行ってくれという父に対して、行きたくないとは言ったものの、あとで思い直して出かけて行った兄と、口先では行くと言ったけれども結局は行かなかった弟とどちらが父の願い通りにしたのか。このたとえ話を、口先でどう話すかよりも実際に行動するほうが大切なのだ、という倫理道徳のお話しにしまってはいけないでしょう。
 「取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」とイエスさまは言われましたが、彼らは倫理道徳的に立派な行いをしていたわけではありません。
 (ちなみに、口語訳聖書という翻訳がありますが、それではこの個所が兄と弟とが逆になっています。聖書は面白いですね。)

 「父の願い」とは「信じる」ものとなるということでしょう。口でどう語るかはともかく、兄は「後になって思い直し」出かけて行って、父とともにぶどう園で働く道を選択しました。「思い直すこと」そして「父とともに働く」あるいは「時を過ごそうとする」ということ、それが取税人や遊女たちが「信じた」ということだったというのでしょう。それが「義の道」に生きるということなのです。

 信仰に生きるということは、義に生きる、正しい道に生きるということでもありますが、それは神さまとの関係の正しさであって、倫理道徳的な正しさをまず語っているのではありません。倫理道徳的な正しさはどうでもよいということではありません。神さまとの正しい関係の中に、喜びと感謝をもって、すなわち神さまを心から愛して生きる道こそ、まことの倫理道徳が実現される道であると聖書は語っているのだと思います。
 そのような生き方にはつねに「思い直す」ということ、そして神さまとともに時を過ごそうとする願いが必ずあるのです。