罪は戒めによって機会をとらえ

静まりの時 2022年3月24日(木)
ローマ7・7~12

「・・・罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。・・・」

(ローマ7・11、新改訳2017)

 律法や戒めは、本来は良いものでした。人間をいのちに導くものでした。神さまは人間をお造りになりエデンの園に置かれたとき、さっそく戒めを与えられています。

「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2・16,17)。

 神さまによって造られた人間は、この戒めによって、何不自由のないエデンの生活の中で、うっかりすると忘れてしまう「神さまを覚える機会」が与えられたのです。戒めは、神さまを覚える機会、神さまを愛するチャンスを与えられた、ということなのです。
 しかし人間の罪は、この「戒めによって機会をとらえ」ました。罪が戒めを見て、これはチャンスだ、と思ったというのです。罪が戒めを利用してパウロを欺き、本来人間をいのちに導くはずの戒めによってパウロを殺した、というのです。
 罪は、戒めを利用して、人間を殺した、ということ。ここに人間の罪の深さがあります。

 イエスさまは最も大切な律法、戒めとして、神を愛することと自分を愛するように隣人を愛すること、この二つを教えてくださいました。神を愛し隣人を愛すること。この二つの愛に生きるとき、人間はいのちに生きるものとなります。そのために具体的な戒めを与えられたのですが、いつの間にか人間はその戒めを、いのちを殺すために用いるようになった。それがイエスさまが闘われることになった律法学者やパリサイ人たちの語る律法主義でしょう。イエスさまが十字架につかれたのは、この律法主義という人間の罪のためであったといえるでしょう。

 イエスさまを信じて救われるということは、この律法主義によっていのちを殺すような私たちの生き方が変えられて、本来の律法の役割であるいのちに生きるようになることです。あのエデンの園での生活を取り戻させていただくことです。本来の戒めの意味を取り戻すことです。
 私は、それのカギは「喜び」にあるのではないか、と思います。
 パウロはこの段落の中で貪(むさぼ)りという具体的な罪を取り上げています。

「それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が『隣人のものを欲してはならない』と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。」(ローマ7・7)。

 隣人のものを欲してはならない、という律法があるので、自らの中の貪りという罪を教えられた、というのですが、では、隣人のものを欲してはならない、という律法はもう守らなくてもよいものなのかと言うと、そうではなく、イエスさまにお出会いし、イエスさまによって救われた者は、「喜んで」隣人のものを欲しない生き方を選択する、ということだと思います。それがイエスさまが喜んでくださることであり、イエスさまが喜んでくださることを選択することは、イエスさまを愛することであり、それこそ私の人生の喜び、またいのちに生きることとなったからです。これが「救われる」ということです。イエスさまを信じたので、罪の一切が赦された天国への道をいただいたので、もう何をしていても救われているだから、自分の好き勝手にしよう、というのとはずいぶん違う生き方ですね。人間は、神を愛し隣人を愛してこそ、生きる存在となるのです。

「喜びとは、事の真偽を判別する大切な基準です。喜びのない深さは自己満足している深刻さです。喜びのない熱心さは報いを求める不平なのです。喜びのない正しさも他を裁く誇りにすぎないのです。」

(藤木正三「神の風景」、64頁)

「大切なことは、たくさんのことをし遂げることでも、何もかもをすることでもありません。大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。貧しい人々に奉仕しているとき、私たちは神に仕えているのだと確信していることなのです。」

(マザー・テレサ、『愛と祈りのことば』、66頁)