静まりの時 2022年3月25日(金)
ローマ7・13~25
「・・・私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。・・・」
(ローマ7・19、新改訳2017)
「したいと願う善」。共同訳2018では「自分の望む善」。「善」を自分は望んでいる、したいと願っている、とパウロは語りました。そして悪については「したくない悪」。同じく共同訳2018では「望まない悪」。自分は悪を望んではいないのだ、と語るのです。
私という人間をどうとらえるのか。罪びとであるということは、悪を望み善を望まない存在である、というとらえ方ができると思いますが、パウロはその逆で、罪びとではあるが、自分は、善を望み悪を望まない者である、というのです。本当は、善を望んでいる、しかしそれができない、できていない、むしろ望んでいない悪、したくない悪を行っている、というのです。ですから「みじめな人間」(24)なのです。
神さまに造られた人間は、本来善いものとして造られました。善を望むように造られているはずなのです。なのに悪を行ってしまう。ですから自由がありません。おおよそ悪を行う者は、不自由の中にある、本来神さまが造って下さったように生きていない、のです。
イエスさまを信じてもなお罪を犯す人間。赦されているのだからと開き直って罪の中にあり続けようとする人間。それは本来の人間の姿ではない、本来の人間の姿ではないので不自由である、みじめである、それがパウロの人間観でした。
宣教の業は、この不自由な人間を自由にすることです。イエスさまを信じ救われるということは、善に生きる人間になる、ということであり、そうして自由な人間になるということなのです。本来の自分、本当の自分になることなのです。