静まりの時 2022年3月26日(土)
創世記15・1~6
「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。『アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。』・・・アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」
(創世記15・1、6、新改訳2017)
神さまの約束の御業が何一つ見えない時に、神さまはアブラハムに語られます。「恐れるな、わたしはあなたの盾である、あなたへの報いは非常に大きい」と。アブラハムは、何一つ神さまの御業の見えない時に、この語られたおことばによって「主を信じ」ました。このことが、アブラハムの義と認められた、と聖書は語ります。
新改訳2017では「それで、それが彼の義と認められた」と訳されていますが、従来の第三版では「主はそれを彼の義と認められた」、新共同訳では「主はそれを彼の義と認められた」、共同訳2018では「主はそれを彼の義と認められた」。新改訳2017でも欄外の中には別訳として「主はそれを彼の義と認められた」とあります。
おそらく直訳的には新改訳2017なのだと思いますが、意味としては他の訳の方が分かりやすい感じがします。
さらに新改訳2017では、神の義ということばの欄外注には「神にとっての義」と記されています。
おそらくここで聖書が語ろうとしていることは、このアブラハムの「信じた」ということは、アブラハムの功績というのではなく、それ自体が神さまの恵みである、ということではないかと思います。
信じるに足る材料が何一つ見当たらない時に信じる。これは神さまからの一方的な恵みの賜物である、そう聖書は語るのだと思います。
信仰というのは、神さまからの賜物である、私の功績ではない、ということをどれだけ私たちは自覚しているでしょうか。
もし信仰ということを、自らの功績や努力の結果であるとした場合、それは信仰を能力としてとらえていることでしょう。そこでは成績優秀者が賞賛される学校や会社のような世界が形づくられることになるでしょう。新宗教の中にはそのような形の宗教も多いのではないでしょうか。
しかし聖書は、信仰は神さまからの賜物である、というのです。今自分が信じているということは、神さまのあわれみ以外の何ものでもなく、自らに誇るところは何もない、それゆえ信じていない人を低く見る理由もないのです。信じていない人は、まだ信じていない人であって、それは、もうすぐ信じる人、なのです。私のような者が信じる者となったのですから、今は信じていないその人が信じる人にならない理由は何一つないでしょう。
信仰が、自らが努力の末に勝ち取ったものというのであれば、それは自らの変化によっていつか失ってしまう可能性があります。しかし神さまから与えられた恵みの賜物であれば、神さまの愛は変わることがないのですから、その信仰は失われることがありません。
今日は備えの日。明日は主の日です。良い備えの一日を送り明日の主の日にのぞみましょう。