イエスを見て

静まりの時 2022年3月23日(水)
使徒7・54~60

「・・・しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った。・・・」

(使徒7・55,56、新改訳2017)

 ステパノを取り巻く人びとは、怒りに燃え歯ぎしりします。その恐ろしい怒りが自らに向かっているときも、ステパノの視線は天に向けられています。そして「聖霊」に満たされ、「神」の栄光と、神の右に立っておられる「イエス」を見ています。三位一体の神さまのみに彼の眼は向けられているのです。
 その視線の先にあるのは「神の右に立っておられる」人の子、すなわちイエスさまご自身でした。私たちは使徒信条にて「神の右に座したもう」と告白します。イエスさまは神さまの右にお座りになっておられるのです。そのイエスさまが、ここでは立ち上がっておられる。立ち上がり息をのんで一心にステパノをご覧になっておられるのです。そのイエスさまを、ステパノは一心に見つめています。イエスさまの熱いお心とステパノのひたむきな心が激しく、そしてあたたかく出会っています。
 そうしてほとばしり出た言葉が、「主イエスよ、私の霊をお受けください。」そして「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」。すべてをゆだねる言葉と赦しの言葉でした。
 私たちがあらゆる事態の中に、委ねる信仰と赦しの信仰に生きるためには、視線をどこに向けるのか、にかかっています。どんなに信仰的に見えても、視線が人間に向けられている限り、委ねる信仰と赦しの信仰は生まれません。委ねること、赦すことがなければ、ほんとうに自由な人生を歩むことができません。
 「観想」という祈りがあります。ラテン語で「contemplatio」という言葉だそうです。ギリシャ語では「テオーリア」。これは「神」と「見る」という二つの言葉が引っ付いて出来ている言葉です。神さまを見るという祈り。あらゆる事態の中で神さまのみに視線を向ける祈り。そのような祈りに生きるならば、私たちは委ねる、赦す、というまことの自由の中に生きることができるのです。

 昨年(2021年)の教会だより4月号にも掲載した言葉です。

衝動的な生き方と観想的な生き方を対比させたリストより

・何かに駆り立てられるような生き方から、結果にとらわれない、柔軟な生き方へ
・現実を狭い視野で見る生き方から、広い視野の中に置いてみる生き方へ
・自分で結果をコントロールしようとする生き方から、明け渡した生き方へ
・何かの捕らわれた不安な心から、物事を受け入れた平静な心へ
・何かにしがみつき、失うまいとする生き方から、手を離した、自由な生き方へ
・いつも過去と将来を考えている生き方から、「今、このとき」を大切にして生きる生き方へ
・自己に陶酔した生き方から、自己を認識している生き方へ
・自己保身に走る生き方から、自由に与えられる生き方へ
・自己嫌悪から自己受容へ
・攻撃的・防衛的な生き方から、非暴力的な生き方へ
・感情的に壁を作る生き方から、自分、神、他者との間に親密な関係を持つ生き方へ
・二心ある生き方から、裏表のないシンプルな生き方へ
・他者とは「対処すべき存在」であると見なす生き方から、他者とは「関係を築くべき存在」であると見なす生き方へ
・無秩序な願望から、神への真の渇望へ
・雑然とした内的スペースから、ゆとりある内的スペースへ
・快楽・快適さを求める生き方から、苦しみを受け入れる生き方へ
・子どもっぽい生き方から、子どものような生き方へ

(中村佐知、「霊的変容の旅路への招き」、『船の右側』、2017年9月号、31頁)

 夜に「新天地」という新宗教の方から電話があり、聖書、とくに黙示録に関するビデオ・セミナーの案内をしたいのだが、と言われました。どうして教会の牧師に伝道されるのかとはてなマークが浮かぶのですが…。この方々の視線はどこに向けられているのかな、と思わされます。神さまに向いていないことだけは確かなようです。

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 娘の一人が「おとうさん、納豆はやっぱりわざびやで~」といって以来、付属されているからしではなく、チューブのわさびを加えることが多くなったのですが、わざび入りの納豆が発見されました。

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 八重というのでしょうか、これでもか、と言うほど花びらが詰まったツバキが咲いています。母が友人からもらって挿し木で増えたので妻にもくれたものだそうです。

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 雨上がり。お日さまが水たまりに浮かんでいました。

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 このところ酒粕でつくる豆乳ヨーグルトに親しんでします。酒粕をおやつとしてずいぶん食べさせられた酒屋の息子としてはなつかしい香りです。