静まりの時 2022年3月22日(火)
第二サムエル12・18~23
「・・・ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。
・・・」(第二12・20、新改訳2017)
王となったダビデは、国が戦いの中にあるにもかかわらず昼ごろに床を離れ領内を見渡します。そこで目に留まった女性バテ・シェバを王の権力をもって自分のものとします。結果バテ・シェバは懐妊し、ことは大きくなります。何とか自分の犯した過ちを隠そうと画策しますがうまく行きません。とうとうバテ・シェバの夫ウリアを卑怯な方法で殺してしまいました。ウリアの喪が明けると、ダビデはバテ・シェバを正式に宮廷に召し抱えます。なんということでしょう。かつてのダビデの姿はどこにあるのでしょうか。
かつてのダビデの姿はどこにもありませんが、世の権力者の姿がここにあります。自分の思い通りに世界を動かし、そのためならば人を殺すことも辞さない。なにも王だけではありません。私たちも小さな自分の世界を思い通りにするために、あたりの人たちを自分勝手に利用し、時に破壊する者でしょう。
聖書はこの一連の出来事の締めくくりの言葉として「しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」(2サムエル11・27)と記します。神さまは預言者ナタンを遣わされ、ダビデの犯した罪を指摘されます。驚くべきことに、一介の預言者ナタンの言葉に、大イスラエル王国(このときまだ南北には分裂していませんでした)の王ダビデは悔い改めます。私はここに奇跡が起こっていると思います。悔い改めはつねに神さまの奇跡の業です。その時歌われ、のちのち悔い改めの詩として歌い継がれたのが詩篇51編であると言われます。
さてこの罪によって生まれた男の子がいます。どんなに罪深い大人たちの所業があったとしても、生まれてきた子どもには罪はありません。しかし神さまはこの生まれてきた子どもを打たれました。子どもは病気になりました。ダビデは、その子のために断食をして祈り願います。夜通し地にひれ伏して祈ります。しかしその激しい祈りにもかかわらず子どもは死んでしまいました。
家来たちは子どもが死んだことをダビデに伝えるのを躊躇します。子どもが死んだことを知った王が怒りに燃え、その怒りが爆発し自分たちにも及ぶのではないかと恐れたのです。しかしダビデは家来たちの様子から子どもが死んだ事実を知りました。すると家来たちの心配とは逆に、王はさっさと絶望の「地」から起き上がり、さっぱりして、まるで何もなかったかのように普段の生活に戻りました。それが標記の20節です。家来はこれに驚きました。この家来たちの疑問に対してダビデが答えたのが23節
「・・・しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」(2サムエル12・23)
いったい聖書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。
ダビデとしては、祈りが答えられなかったのです。するとさっさと立ち上がり再出発します。「主の家に入り、礼拝をした」。祈りがこたえられなかったにもかかわらず主を礼拝したと聖書は語ります。
ダビデにとっては、祈りがこたえられるので礼拝をするという考えはなかったようです。祈りがこたえられるか否かにかかわらず、神さまを礼拝する、それがダビデのスタンスでした。ここでダビデはどのような心で祈っていたのかが明らかになるように思います。ダビデは自らの願望のままに祈っていたのではなく、深いところで神さまに「委ねる」という心をもって祈っていた、ということなのだと思います。祈りというのは、委ねる、ということとつながっているのです。委ねるという心を失った祈りは、いわゆる偶像礼拝の祈りとなるでしょう。
いく度か紹介をした「静けさの祈り」が思い起こされます。
神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
-ラインホールド・ニーバー(大木英夫訳)
O God,Give us
Serenity to accept what cannot be changed,
Courage to change what should be changed,
and Wisdom to distinguish the one from
the other.
(Reinhold Niebuhr)
私たちの祈りの問題は、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別できないことに、あるいは識別しようとしないことにあるのかもしれません。識別しないことに人生の問題があるのかもしれません。
昨日は、団体の総会が行われました。法人の臨時総会や理事会も合わせて行われましたが、10時開始で12時に予定通り終了しました。音響の兄弟も駆けつけてくださり助かりました。
昨日摘み取ったつくしが食卓に登場しました。こう見るとなかなか風流なものです。
すみれも咲いていました。これも可憐で美しい花ですね。