静まりの時 2022年3月21日(月)
第一ペテロ1・17~21
「・・・あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。」
(第一ペテロ1・21、新改訳2017)
キリスト教信仰は、天と地を造られたまことの神さまを信じる信仰です。この神さまは唯一のお方です。唯一というのは、ナンバーワンというのではなく、オンリーワンということです。ナンバーワン、すなわち、数々の神々の存在する中でこの神さまだけがすぐれている、ナンバーワンだ、だから信じる、というのではなく、オンリーワン、すなわち、ほかにはいない、このような神さまは唯一無二である、だから信じる、ということです。この世にはお母さんと呼ばれる方は数々いるけれども、私のお母さんは、他のお母さんと比べて優れているから、私のお母さんだ、というのではなく、私のお母さんは、唯一無二だから私のお母さんなのですね。それとよく似ているのかな、と思います。だからキリスト教においては他宗教との比較というのは、あまり意味がありません。
この神さまは「キリストを死者の中からよみがえらせて栄光と与えられた」お方である、と語ります。もうすぐイースターですが、キリスト教信仰は、イエスさまが死者の中からよみがえられたことを信じる信仰です。このよみがえり、復活を聖書は、受け身、受動態のかたちで語ります。つまりイエスさまは、自らのうちに復活のエネルギーみたいなものをお持ちになっていたので、十字架に死なれてもなお復活することができた、ということではないのです。それでは死んでいないということになります。十字架の死は、完全な死でした。その死の中に立たれたイエスさまを、父なる神さまが復活させられた。その死のイエスさまに栄光を与えられた、そのためによみがえらせられた、というのです。
栄光というのは、旧約聖書では「重たい」という言葉です。つまり存在感が明らかになった、ということです。神さまがまことに神さまらしい姿を明らかにしてくださった、神さまは生きてお働きになっているということを明らかにしてくださった、という意味です。ですから栄光を与えられた、ということは、この十字架に架かかり死なれたイエスさまこそ、まことに神さまご自身である、ということを明らかにされた、そのためによみがえらせてくださった、というのです。もはや死はそのとげを抜かれ、絶望ではなくなりました。私たちは死を迎えますが、それでも希望が失われることがなくなりました。
この復活の神さまを信じているのは、キリストによって信じているのだ、とペテロは語りました。私によって信じているのでも、成り行き上信じることになった、偶然に信じるようになったというのでもありません。ただキリストによって信じるようになった。そしていま信じているのも、キリストによって信じている、それがキリスト教信仰である、といいます。だからキリスト教信仰とそこに豊かにある希望は、ただキリストにかかっているのだといいます。
「かかっている」と訳されている言葉ですが、この文章は直訳では「あなたがたの信仰と希望は神さまの中にある」となります。私の信仰と希望は、私の中に存在しているのではなく、神さまの中に存在している、神さまのその御手の中に握りしめていてくださる、というような意味だと思います。
信仰と言うと、どこか自分という主体が、神さまという客体を、信じるということで捕らえていること、のように思われますが、聖書の語る信仰は、主体は神さまであって、その神さまの御手の中に自分自身が握りしめられている、そのことに安心している、というのがキリスト教信仰であると語っているように思います。
だから今日も安心して一日を生きることができるのです。
昨日は主の日。礼拝の日でした。午後はこのところ久しい老兄弟姉妹をお見舞いがてらお訪ねしてきました。突然にお訪ねすることになったのですが歓迎してくださり、しばらく楽しい交わりと祈りの時をいただきました。入退院が続いているようですが、ご夫妻ともども、明るく平安のうちに歩んでおられるようです。
カド番大関、正代が3勝、つづいて頑張っていただきたいものです。同じく貴景勝も頑張っています。近江高校が逆転勝利、長崎日大も素晴らしい健闘でした。一所懸命の姿はいつも輝いています。
少し寒い日が続いています。よもぎも草餅になる時を待っています(笑)。
先日のつくしがけなげに頑張っていました。妻が、このつくしを残していくつか摘み取っていました。食卓にのぼるそうです。
たんぽぽ・・・。