静まりの時 2022年3月8日(火)
ローマ9・19~29
「・・・人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。・・・」
(ローマ9・20、新改訳2017)
「造られた者が造った者に」と訳されていますが、共同訳2018では「造られたものが造った者に」、新共同訳では「造られた物が造った者に」。違いは、新改訳では造られた「者」、つまり人を表しているのに対して、新共同訳では「物」、つまり人だけではなくすべての被造物をそこに含めているような感じがします。共同訳2018は「もの」とひらがなにすることで、どちらにも理解できるようにしているのかな、と思われます。
原文では、「造った者」が、動詞の分子で男性単数となっていて、創造主である神さまご自身を指しています。それに対して「造られた者(もの、物)」は、先の動詞からの名詞なのですが中性名詞なのです。ギリシャ語には性(gender)があるのですね。それで新共同訳や共同訳2018では、その辺を加味して忠実に翻訳しようとしていますが、新改訳は人間を指していると特定して訳してるようです。そこには解釈が含まれているといえるでしょうか。どちらが原文に忠実なのでしょう。
人間の人格も、神さまによって造られたものです。もともとは「大地のちり」(創世記2・7)から造られたので、他のすべての被造物と同じです。しかしそのちりに神さまがいのちの息を吹き込んでくださったので、人は生きる者になった、と聖書は語ります。「神のかたち」(創世記1・26)をいただいたということでは、人間だけが他の被造物と違い特別なのだと思いますが、しかし同時に他の被造物との共通点もあることを忘れてはならないのだと思います。
神さまを信じる者は進化論ではなく創造論に立つことでしょう。人間は進化の過程で生まれてきた偶然の産物ではなく、神さまによって造られた存在であり、それ故神さまによって愛されている尊い存在です。しかしそれはいたずらに人間を他の被造物と区別し、他の被造物を人間の都合によって搾取し変化させ利用してもよいとする、というのではありません。百歩譲って進化論にも学ぶところがあるとすれば、人間も他の被造物と同じ「大地のちり」によって造られているということを思い起こさせてくれる、ということでしょうか。創造論が人間中心の考え方の中で、近代化、工業化を進ませ、二酸化炭素の排出量を膨大にし、人種間差別を助長し、植民地政策を正当化し、ことごとく他の文化を否定し、あるいは搾取の対象としてきたのではないかと想像します。そんな歴史を振り返ると、持続可能な社会を形成するためには、この私たちも「大地のちり」の一つなのだ、ということを忘れないことも大切ではないか、と思います。
日曜日から月曜日にかけて、教職の静まりの会(リトリート)に参加してきました。年に二回ですが、前回は退院後で体力的に自信がなく欠席しました。一年ぶりに出会う仲間、はじめてお出会いする人とともに、一泊二日の短い時間ですが、しずかな環境の中に身を置きつつ、自分自身を振り返り、神さまと親しく過ごす素晴らしい時をいただきました。
「牧師として会衆のためにすることで何よりも大切なことは、自分のたましいのケアーをすることである」(M.Craig Barnes)ということですね。