静まりの時 2022年3月6日(日)
マタイ11章20ー24節
「それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。」
(マタイ11・20)
「悔い改め」とは方向変換という意味を持っています。自らの犯した罪を心から悪かったと反省することだけではなく、生き方の方向を180度変換することです。
漠然と神さまを信じるということではなく、神のひとり子、イエスさまにおいて神さまを信じる、イエスさまご自身を神さまと信じるという信仰は、この悔い改めるということを伴います。
人間はそれぞれに生き方の方向を持っています。幸せになりたい、豊かになりたい、病気がいやされたい、などなど。結局のところ自己の幸福を追求することや自己実現がその目標であるといってもよいでしょう。それは大切なことであり、決して否定すべきことではありません。
聖書はその幸せを本当に手にするためには、自分自身を神さまにおゆだねしなければならないと語ります。神さまは天地の創造主であるとともに、私たち罪びとのためにいのちを捨てるほどの愛なるお方です。自分中心から、その神さまに向かって方向変換すること。そうしてこそおゆだねするということが可能となりまことの幸せの道が始まるのです。
神さまを信じたといっても、悔い改めず方向を変換していないならば、結局のところ自分自身を神さまとしていることであり偶像礼拝をしていることなのです。
今日は主の日。礼拝の日です。人生の方向を変えて、主を礼拝し新しい一週間に出発しましょう。
昨日は、昨年の12月に天に召された姉妹の偲ぶ会が行われ、思い出を話させていただけるということで出かけてきました。妻が短くお話しをし、私は賛美を歌わせていただきました。人に聞かせるような歌声ではありませんが、天に帰った姉妹を偲びつつ歌わせていただきました。
歌った讃美歌は、数年前に教会の姉妹が特別賛美として歌って下さった讃美歌で「球根の中には」です。
球根の中には
1、球根の中には 花が秘められ
さなぎの中から いのち はばたく
寒い冬の中 春は めざめる
その日 その時を ただ神が知る2、沈黙はやがて 歌に変えられ
深いやみの中 夜明け近づく
過ぎ去った時が 未来をひらく
その日 その時を ただ神が知る3、いのちの終わりは いのちの始め
おそれは信仰に 死は復活に
ついに変えられる 永遠の朝
その日 その時を ただ神が知る
(讃美歌21 575)
その日、その時を、ただ神が知る・・・。神さまがよし、と言って下さるその時まで、とりあえず生きていきますから、喜びと感謝をもって日々を過ごしていきたいと思います。
偲ぶ会では、なつかし方々にお出会い出来、短い時間でしたが言葉を交わすことができたことも感謝でした。なお闘病中の方々のことも覚えて祈ります。
偲ぶ会の始まりの時間が午後1時だったこともあり、少し早くに出発し、琵琶湖大橋にある道の駅でお弁当を買って昼食をとりました。あたたかな、また穏やかな日。琵琶湖を望みながら妻と食事の時。故人を偲ぶよい一日でした。