静まりの時 2022年3月5日(土)
ルカ6・20~26
「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。
『貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。・・・」(ルカ6・20、新改訳2017)
マタイの福音書5章3節以降に山上の説教として記載されている言葉が、ルカの福音書では6章20節以降に記されています。マタイでは「心の・・・」とありますが、ルカでは単純に「貧しい人びとは・・・」と書き出されています。
マタイの方は「心」がついています。原文では「霊」とも訳される言葉です。霊的に貧しい者は幸いである、天の御国はその人のものだからです、と。つまり心が貧しい、感情的に希薄である、というよりも、霊的、宗教的な貧しさ、足りなさの中にある、そういう者こそ、神さまのご支配が豊かにあるのだ、幸いなのだとイエスさまは言われたのです。
教会をはじめ宗教の世界では、霊的に高められる、とか、霊的に豊かである、ということが推奨されるのかもしれませんが、聖書の語る信仰の世界はそれとは全く異質な恵みを語ります。
ルカの方では、この「心」「霊」という言葉がついていないので、さらにさまざまな貧しさを思わされます。経済的な貧しさ、知的な貧しさ、行動的な貧しさ、徳の貧しさ、施しの貧しさ、奉仕の貧しさ、などなど。いずれもあまり歓迎されない状態ではないかと思いますが、イエスさまはむしろそのところにこそ幸いがある、なぜなら神さまのご支配が豊かにあるからである、と。
もしさまざまな面において豊かになれば、人間は神さまを求めることをしなくなるのだと思います。神さまなしでキリスト教信仰に生きることができてしまうのも、また人間の罪深さなのでしょう。
さらにルカの福音書ので方は、幸いだけでなく、「・・・哀れです」、新共同訳では「不幸である」、共同訳では「災いあれ」という言葉も語られています。高慢は、幸いでないだけではなく、不幸なことなのだ、とまで言われました。
このルカの個所は、マタイの山上の説教に対して「平地の説教」と言われます。少しさかのぼってルカの福音書6章17節から聖書を見ると、
「それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。『貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。・・・」
(ルカ6・17~20)
イエスさまは平らなところに立ち、目を上げて弟子たちを見つめながら言われた言葉としてルカは記しています。貧しい人たち、飢えている人たち、泣いている人たち、迫害されている人たちとともに、その同じところに立っていてくださる、そうして語られた、と記しているのです。「目を上げて」語られた、ということは、もしかすると、同じところ以上に、彼らよりも下に立って語られたのかもしれません。
何度かお話ししていますが、英語の「理解する」という言葉に「アンダースタンド(understand)」があります。ある先生は、これは「下に(under)」「立つ(stand)」ことだ、と言われました。理解すると言いながら、依然上に立っているならば、今の言葉でいえばマウントを取るでしょうか、それは理解していることにならない、ということでしょう。
イエスさまは、そのように私の下に立って支えていてくださるまことの神さまなのです。私以上に私のことを理解していてくださるお方なのです。
昨日は、教会の花壇の作業に幾人かの姉妹方がご奉仕くださいました。教会に来られる方々を花でお迎えできるようにと準備が進んでいます。感謝します。今日は啓蟄。テレビでは昨日にこもをはずす作業の様子が映し出されていました。散歩コースにある人参畑が収穫も終わり耕運機で耕されていました。麦畑の緑も少しづつ成長しています。私も散髪をしてさっぱりしました。