神の慈しみにとどまる

静まりの時 2022年3月9日(水)
ローマ11・17~22

「・・・ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。」

(ローマ11・22、新改訳2017)

 ユダヤ人の救いについて論じられている箇所からの言葉。救いは信仰によってもたらされるのであり、ユダヤ人であるか、異邦人であるかには一切かかわりがない、とパウロは語ります。自分たちが救われたのはひたすら神さまのいつくしみのゆえであって、もしそのいつくしみの中にとどまることをやめるならば、救いからはずれてしまう、というのです。信仰とは、神さまのいつくしみの中にとどまるということです。
 この22節を共同訳2018で見てみましょう。

「だから、神の慈しみと厳しさとを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。そうでなければ、あなたも切り取られるでしょう。」

(ローマ11・22、共同訳2018)

 意味は同じようなことですが、微妙にその印象の違いを感じるのは私だけでしょうか。

 いずれも三つの文章に訳されています。
(1)
(新改訳2017)=「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。」
(共同訳2018)=「だから、神の慈しみと厳しさとを考えなさい。」

(2)
(新改訳2017)=「倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。」
(共同訳2018)=「厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。」

(3)
(新改訳2017)=「ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。」
(共同訳2018)=「そうでなければ、あなたも切り取られるでしょう。」

新改訳2017では「あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって」と訳された言葉が、三番目の文章の「そうでなければ、あなたも切り取られます」にくっついています。
これに対して共同訳2018では「神の慈しみにとどまる限り」と訳された言葉が、二番目の文章「その慈しみはあなたに向けられるのです」にくっついて訳されているということでしょう。

「そのいつくしみの中にとどまる」「神さまの慈しみにとどまる」という言葉が、新改訳2017では「・・・切り取られます」と帰結する文章となるのに対して、共同訳2018では「・・・慈しみはあなたに向けられるのです」との文章に帰結するということが、印象の違いを生み出しているのかな、と思いました。余韻に「切り取られます」と響くのか、それとも「慈しみはあなたに向けられるのです」と響くのか。
 同じことを語っているのだと思いますが、印象の違いは大きいですね。聖書は何よりも礼拝の中で朗読される言葉ですから、印象や響きは大切な気がします。共同訳の翻訳チームには詩人も入っているといいいますから、そうことが違いを生み出しているのでしょうか。

 さて、あらためて。信仰とは、神さまの慈しみのとどまる、ということです。ということは、罪びとである私たちはつねに誘惑として、神さまの慈しみから離れてしまおうとする性質がある、ということでしょう。慈しみから離れるなどとは、想像がつかないということもあるかもしれませんが、言葉を変えるならば、私は神さまに愛されている、神さまが慈しんでいてくださる存在だ、という信仰的な確信から離れてしまう、それが揺らいでしまう、ということです。
 パウロは、異邦人であるローマの人びとよ、あなたがたが救われたのは、ただひたすら神さまの慈しみによるのだ、と語ります。この神さまの一方的な慈しみ、恵みによるということを忘れ、自分の何かによって救いが与えられた、と考え始めたとたん、それは、神さまの慈しみから離れはじめていることである、というのです。「私は神さまに愛されている」という信仰から離れてしまうのは、「私の救いは私の内にあった何かによるものだ」と思い始める「高慢」が生み出す病なのです。
 ですから信仰の成長ということがあるとすれば、それはどこまでも謙遜に生きるということです。