捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました

静まりの時 2022年3月10日(木)
第一ペテロ3・18~22

「その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。」

(第一ペテロ3・19、新改訳2017)

 この「宣言されました」と訳された言葉は、ギリシャ語では「ケーリュッソー」(であってるかな)で「ケーリュグマ」という名詞と語源が同じで「布告する」と訳される言葉です。説教と訳されることも多いのですが、説教というと説き明かし教える、ということですが、それよりも宣告、告知、という感じが近いようです。「伝令」という言葉とも語源を同じにし、それは戦争の終わりを告げる知らせ、良い知らせ(ユーアンゲリオン、エバンジェル、福音)を伝える人のことを指します。第三版では「みことばを語られた」と訳され、新共同訳、共同訳2018では「宣教された」と訳されています。ちなみに礼拝プログラムの中の説教ですが、教会によっては宣教としているところもあります。

 この個所から、セカンドチャンスという教理を考えたくなるのかもしれませんが、それよりも、十字架と復活によって現れたキリストの愛は、死をも乗り越えていくほどに大きなものである、と理解することがよいのではないでしょうか。

「・・・バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。・・・」

(第一ペテロ3・21、新改訳2017)

 特別な状況のない限り「浸礼」での洗礼を求めている私たちの団体ですが、教会の歴史的には、滴礼や灌水礼(注礼)も大切に行われて来ました。ユダヤ教に起源をもつ浸礼ですが、それは「肉の汚れを取り除く」という意味が濃いのだと思います。それに対してキリスト教会では「健全な良心が神に対して行う誓約」と洗礼をとらえなおしてきたということで、水という「物素」は使うのですが、それ以上に信仰の告白による誓約と、「父と子と聖霊の御名によって」という、三位一体の神さまのお名前による宣言を大切にしてきたようです。
 とくに日本などでは「浸礼」は神道のみそぎのような印象を与えることもあるのか、しっかりと頭まで浸かることが大切にされたり・・・。私なんかも、2月末、粉雪の舞う琵琶湖での洗礼式でしたので、駆けつけてくれたパンチパーマの友人たちも、それなりに盛り上がっていてくれました。ずいぶん誤解を与えたような気がしています(笑)。

 キリストの愛は、死をも乗り越える。これが私たちが教えられている神さまの愛の大きさです。

 昨日は、団体総会のための年間報告作りで一日を過ごすことになりました。各教会が2月末までに総会を終え各種報告を送ってきてくださいます。各委員会もそれぞれに年間の報告をまとめて送ってくださいます。それを受けて私の方で原稿にまとめます。コンピュータの導入、インターネットの発展でずいぶん楽な作業になりました。集中すると、少し猫背で前かがみになってしまい、気が付けば息を詰めて作業をしてしまいます。心不全患者にはしんどくなってしまうことなのですが、何とか完成し、PDFで各先生方に送りチェックの段階に入りました。今日の昼までには最終チェックも終わり、午後にでも印刷、製本、発送が出来そうです。感謝です。

 日々気候が春に向かっていて体調も安定しています。