静まりの時 2022年3月4日(金)
マタイ13・44~52
「『あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。』彼らは『はい』と言った。そこでイエスは言われた。『こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。』」
(マタイ13・51,52、新改訳2017)
マタイの福音書は13章に天の御国(神の国)のたとえをまとめて記しています。
この36節に
「それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て・・・」
とありますので、この節以降はことさら弟子たちに語られた言葉である、ということでしょう。そして一連のたとえ話の終盤になると、天の御国は「畑に隠された宝」「良い真珠」「あらゆる種類の魚を集める網」のようなものである、と語られました。天の御国の尊さ、かけがえのなさ、そして豊かさが語られたということでしょうか。そして最後に聞いていた弟子たちにイエスさまは問われました。
「『あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。』」
彼らは答えます。
「彼らは『はい』と言った。」
先生と生徒の姿、教える者と教えられる者の姿がここにあります。
そうしてイエスさまは言われました。
「そこでイエスは言われた。『こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。』」
天の御国の弟子となった学者。弟子というのは何よりも学者、学ぶ者である、ということです。そのようになった者、そのように召された者は、「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようなものである、と言われました。自分の蓄えた物、学んだものを、自由に取り出すことのできる者となる、ということでしょう。
信仰は、信じることですから、難しい理屈を学ぶことよりも、祈りに生きることが大切であると思います。机の上でいくら高邁な知識を得ても、イエスさまへの愛、人生への愛、隣人への愛に生きることがなければ、意味がないでしょう。しかしだからと言って学ぶことをおろそかにして祈りのみに専心しようとするのは、地図を持たずに人生の旅をするようなものです。道に迷い行き詰まり、不自由と不安の中で、景色を楽しむ余裕も生まれません。
人生のさまざまな課題に出会うときに、学び蓄えた蔵(倉)から古い物、新しい物、さまざまなものを取り出し、それらによって人生の課題を乗り越えていく。キリスト者が学ぶ知恵は、この世での歩みのために役立つものであるだけでなく、永遠に変わらないものであり、最後の審判の時でさえ役立つ教えである、というのです。キリスト教会では礼拝をはじめさまざまな集いで聖書の学びをその中心にしているのは、そのような意味からだと思います。牧師も日々学ぶ者です。学びをやめたとたんに、教えることも成り立たなくなります。古い物ばっかり取り出していても時代に合わなくなります。新しい物ばかりでも、基礎がおろそかになるでしょう。古い物、新しいものを取り出すことのできる学びが大切です。
このようにキリスト教会は学びを大切にしてきました。しかもその学びは、学んだ者から学ぶ、ということを大切にしてきたのです。学びは単なる知識ではなく、そこにいのちがあるので、学んだ者から学ぶ、人から人に伝えられていく、いのちに生きるものからいのちに生きるものに、ということを大切にしてきました。
むかし子どもに絵本を読み聞かせるのに、人間が読むよりも声優などプロの方が良いということで、録音したものを聞かせようとしたところ、それは良くないのではないか、へたくそでも人間が、人間関係の中にある人間が語る方が良いのではないかといった議論があった、と聞いたことがありました。今日、教育的な場面にさまざまな先進技術導入されています。歓迎されることだと思います。いままで不可能であったところに教育の機会が生まれることはとても素晴らしいことだと思います。しかしいのちからいのちへ、ということの大切さも失われないようにとも思います。子どもを静かにさせようとスマホをあてがい、自分はゲームに専念している親子連れを見ると複雑ですね。「わかりましたか」「はい」の関係を失ってはならないですね。