静まりの時 ピリピ3・12~17
日付:2024年03月04日(月)
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。(12)
これを書いたパウロは、新約聖書27巻中13巻を書いたと言われるキリストの弟子でした。偉大な使徒でした。そのパウロが自分は、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追求している」と語ります。免許皆伝などにはほどとおい、まだほんの一握りのことを知らされただけである、まだまだ未完成である、といいます。そして同時に「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えてくださった」と語ります。キリストがすでに捕えて下さっている、もうそれは完璧である、完了されたことだ、というのです。「いまだ」と「すでに」が共存しています。あるいはこの二つのことは互いに補い合っています。安心して追求できるのは、すでに捕えられているからです。すでに捕えられている安心感が、追求心を支えています。
完全に救われているけれども、いまだ完成していない。いまだ完成していないけれども、完全な救いをいただいている。完全に救われているからこそ、安心して追い求めている。私は未完成である、ということが、自由な心で告白できる、表明できる。これがキリスト者です。
すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない。単なる謙遜を語っているのではありません。本当は心の底では自分はまんざらではない、少なくとも誰かさんよりは完成に近いなどとの思いを持ちつつも、口先では、いえいえまだ完成されていなのですよ、まだまだ若輩者で、などと言っているのではありません。喜びをもって、自由な心をもって、私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない、と告白しているのです。
イエスさまにしっかりと捕えられているからこそ、このような言葉を語ることが出来たのだと思います。自分がイエスさまの御手の中にあるかどうか分からない、不安がある、ということであれば、かえって、私はしっかりとイエスさまを得ている、もう完成しているのだ、誰かに教えてもらう必要などない、と言い張ってしまうのではないか。
安心して自分の弱さや足りなさを告白することが出来るのは、信仰のなせる業だと思います。自分の弱さや足りなさを告白することが出来ない、見つめることすらできない。それは、イエスさまの御手の中にあることに安んじていないからです。
あるいはイエスさまの御手にある、イエスさまの御手の中に置いていてもらっている、ということの根拠を自分の業、自分の何か、に置いてしまっているならば、当然ですが、自分の弱さや足りなさを認めることは難しいでしょう。
自分の足りなさや弱さを認めることが出来るのは、その足りなさや弱さにもかかわらず、イエスさまが私を捕えていてくださることを受け入れているからです。私の足りなさや弱さに一切関係なく、イエスさまが私を捕えて下さっている。その安心感の中に生きている、生かされている。それがキリスト者です。
ですから私たちは、安心して自由な心で、私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追求しているのです、と言い得るのです。あるいは喜びをもってこのようにいうことが出来るのです。
ですからこの恵みをピリピの信者たちにも知っていただきたい。その熱い思いをもって語ります。
「兄弟たち。私に倣う者となってください」(17)。
こんなすばらしい生き方があるのですよ。みなその生き方に招かれているのですよ。だからあなたがたもこんな素晴らしい生き方になってください。私に倣うものとなってください。また私たちが手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。あの先輩のキリスト者たちに目を留めてください。彼らは、みな自らの足りなさや、弱さをそのままに語っているでしょう。ペテロを見てみなさい。福音書には彼の失敗談がいっぱい書かれているでしょう。使徒行伝を見れば、あちらでこう言ったかと思うと別のことではまた違うことを言ったりしてまったく優柔不断なのに、イエスさまはそんなペテロに、あなたは岩だ、あなたの上にわたしはわたしの教会を建てるなどといわれてしまっています。他の弟子たちもみんなそうです。自らが未完成であることを、私たちも安んじて受けて入れていればいいのです。
イエスさまがそんな私たちをしっかりと捕えていてくださいます。糸の切れた凧、という言葉がありますが、私たちは決して切れることのない糸に結びつけられた凧なのです。凧である私たちは青空に悠々と泳いでいる時もあれば、強風にあおられくるくると回転している時もあり、風が凪(な)いで、力無く落下する時もあり、地面を引きずられるようなことにもなり・・・。それでもイエスさまにつなげられた糸は決して切り離されることはありません。今日もイエスさまに引きずられて行きたいと思います。ズズズズ~。