静まりの時 イザヤ50・4~10
日付:2024年01月25日(木)
4 神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、
朝ごとに私を呼び覚まし、
私の耳を呼び覚まして、
私が弟子として聞くようにされる。
5 神である主は私の耳を開いてくださった。
神さまはイザヤに、弟子の舌、を与えて下さいました。その舌をもって「疲れた者をことばで励ますこと」を教えられました。
ことばで励ます。口先で励ますというような否定的な意味ではありません。ことばこそ、人間に本当の励ましを与えるものです。ことば以外の励ましは真実の励ましにはならない、あるいはことばを伴わない励ましは励ましにならないのです。マザー・テレサだったでしょうか、愛のない贈り物は人を傷つける、といいました。同じくことばのない贈り物、ことばのない行為は、励ましにならないのです。
神さまはイザヤに、そして私たちに、弟子の舌を与えて下さいます。愛する者をことばをもって励ますために。
一つのことばが誰かを励ます場合もあれば、逆にがっかりさせたり、傷つけたりする場合もあります。神さまが与えて下さる弟子の舌とはいったいどういう風に備えられるのか。
神さまは、私を朝ごとに呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として「聞くように」される、とイザヤは語りました。
聞くようにされる。弟子の舌は、聞く、ことによって備えられます。神さまによって耳が開かれること。耳の開かれた者こそ、弟子の舌を持つのです。おおよそ聞くことのない者には、弟子の舌が備えられることがなく、ことばをもって誰かを励ますことができません。聞くことのない者の語ることばは、かえって人を傷つけてしまいます。
弟子の舌を主によって備えていただきましょう。
10 あなたがたのうちで主を恐れ、
主のしもべの声に聞き従うのはだれか。
闇の中を歩くのに光を持たない人は、
主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。
闇の中を歩むのに光を持たない。それが私たち人間のありさまです。
闇の中を歩むためのまことの光とは、「主のしもべの声」です。主のしもべの声が発することばです。暗やみの中にあってもなお主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼む者は、道に迷うことなく、つまずくことなく、平安をもって歩むことが出来ます。
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネ1・9~14)
原文で聖四文字(ヤーウェ)を、新改訳では太字の「主」と表記されてきましたが、2017年度版から「神」も時々太字で表記されるようになりました。これについては新改訳2017のあとがきの2ページ目に説明があります。