静まりの時 詩篇90・1~17
日付:2024年01月26日(金)
10 私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
そのほとんどは 労苦とわざわいです。
瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。
11 だれが御怒りの力を
あなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。
ふさわしい恐れを持つほどに。
12 どうか教えてください。自分の日を数えることを。
そうして私たちに 知恵の心を得させてください。
「自分の日を数えること」。
自分の日とはいったい何だろう。自分に与えられている日、時間。人生の時間。
あるいは過去に与えられた時間。その日々を数えること。様々な思い出、喜びのこと、悲しみのこと。後悔や思い出したくないことごと。
あるいは今の時を数えること。今生かされているこの瞬間を数える。
あるいは将来。残された時間。
セサミストリートに、カウント伯爵(「Count von Count」)、というのが登場していました。。カウントというのは、countで、「数える」という意味と「伯爵」という意味があるそうです。数えるのが好きで、何でも数えないと気が済まないキャラクターです。
count は、数えるという意味と共に、勘定に入れる、とか、価値がある、という意味でも使われるそうです。子どものころ、鬼ごっごなどをするとき、小さな子どもは捕まっても鬼にならない、という特別ルールをつくっていたものです。これを、私たちは「ごまめ」と呼んでいました。たかひろくんはごまめやさかいな~、と言われると、一緒に鬼ごっこをするのですが、捕まっても鬼にならない(なれない)ので、安心というか、たぶん他の大きな子どもにとって安心だったのかもしれません。数に入れられていなかった、ということですね。
もちろん数に入れられていなかった、といっても、価値がなかったか、というとそうでもなかったと思います。むしろ一緒に遊ぶ道を開こうとしていた、ということでは、価値を見いだそうとするための一つの方策が、この「ごまめ」にはあったのかもしれません。
人生を数える。過去を数える、現在を数える、将来を数える。それは、勘定に入れる、無いもののようにはしない、その日々を価値あるものとする、ということです。
それは、神さまに教えていただくものです。私たちは神さまに教えていただかなければ、日を数えることが出来ないのです。正しく数えることができるように、神さまに向かって、どうか教えてください、と祈りたいと思います。そのための知恵を下さい、と祈りたいと思います。それこそ、人生における最も大切な知恵なのだと思います。
過去を正しく数える。どのような過去であっても、神さまのお許しの中に歩んできた日々です。感謝をもって数えたいと思います。
今の時は、この瞬間瞬間は、神さまの御手の中にあります。心を開いて、この時を味わいたいと思います。
将来も神さまの御手の中にあります。私の人生のどれだけの時間が残されているのかを知ることは出来ませんが、地上の歩みは永遠ではないことを見失わないようにしたいと思います。そうして将来を正しく数えることによって、今の時を大切に生きたいと思います。
正しく数えること。神さまの御手の中にあることを信じて数えること。有限であることをわきまえて数えること。感謝をもって数えること。
「数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ 主の恵み」
(新聖歌172)
「count your blessings」。恵みを数える。否定的なことは数えないで、肯定的なことだけを数える、と言うことかもしれません。しかし、すべてが神さまの御手の業であると信じて数えるならば、どのようなことであっても、神さまの祝福であると数えることが出来るのだと思います。
「自分こそ、自分の一生が決して完全無欠なものではないことを知っている。ましてや、もっと大きな眼からみれば、自分の一生などなんとおかしな、こっけいな、あわれむべきものであろうか。それにもかかわらず今まで人間として生きることを許され、多くの力や人によって生かされてきた。生きる苦しみもあったが、また美しい自然やすぐれた人びとに出会うよろこびも味わわされた。そしてこれからも死ぬときまで許され、支えられて行くのだろう。ひとは眠っているときにも支えられているのだから、これからも自分が意識するとしないとにかかわりなく支えられて行くのだろう。」
(神谷美恵子、「人生の秋」『こころの旅』(神谷美恵子著作集3)、みすず書房、1982年、152頁)