すべての理解を超えた神の平安

静まりの時 ピリピ4・4~7

日付:2023年12月02日(土)

4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

(4-7)

喜びのない人生は生きているとは言えない、とある説教者は語っていました。嬉しい時はもちろんですが、何もなくても、あるいは逆に困難があっても、心に喜びがある。そんな人生は素敵だと思います。そんな人生でありたいと思います。

喜びなさい。喜んでいればよい、ただ喜びに生きていればよい、そのように聖書は語ります。そうだ、喜んでいればよいのだ、と心を新たにしましょう。

「あなたがたの寛容な心」。家族の名前を合わせると、この「寛容」となる素敵な兄弟姉妹がおられます。まさに寛容な方々です。主にある者にはすべてこの寛容な心が与えられています。

ただ優しいとか柔和であるということではありません。まことに寛容なお方はただ一人イエスさまだけです。イエスさまは十字架によって私たちの罪を赦してくださいました。神のいのちでなければ贖いきれない私たちの罪。その罪を、ご自身のいのちをもって贖おうとされた義と愛。義を1ミリもゆるがせにせず、しかし同時に無限の愛を傾けて下さった十字架。主にある者は、この主の十字架を受け入れた者です。主にある者は、みな主の寛容をいただいた者なのです。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6・12)

私たちには赦しの力はありませんが、私たちの内にいてくださる主のその寛容によって、私たちも赦しに生きる者となるのです。

「祈りと願い」。祈りとは、神さまとともにいて、自らの全てをお委ねすることです。願いとは、私たちの欲望や願望を捨て、希望を語ることです。そうして神さまに私たちの心を知っていただきます。

そもそも神さまは私たちのすべてをご存じなのです。しかしあえて神さまに知っていただくのは、それは神さまのため、ではなく、私たちのため、でしょう。神さまが知っていてくださると信じること。それが、「すべての理解を超えた神の平安」への道であるということでしょう。

この平安が、私たちの「心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。

守られて生きることが出来る。それが主にある者の人生です。私たちを守るのは、神の平安である、と言います。どんなに戦いの中に置かれたとしても、神さまの平安が私の内にあるならば、私たちの守りは万全なのです。

「心と思い」は、取り扱いが難しい、と竹森先生はその説教集に書いておられました。自分のものでありつつも、自分ではどうすることもできないのか自分の心ではないかと思います。不安や心配が出てくれば、際限なく思いが広がり、もうどうすることもできなくなってしまいます。しかし聖書は「キリスト・イエスにあって守ってくれる」と語ります。そうであるならば、もう自分自身も自分の人生、先行きも、あるいは過去も、すべてのことを、神さまの御手に委ねてしまえばよいのです。

「守るとここに書いてある字は、はじめは、何かことの起こる前から見張っているという字なのです。聖書が書かれた時代には、駐屯軍のために歩哨をたてて守っているという字なのです。前にも申しましたが、この手紙を受けたピリピの町には、ローマの兵営があったらしいのです。ローマからは、ずいぶん離れたところであります。その遠いローマを守るために、ローマの軍隊がおいてあったのであります。その軍隊のために見張りが立っていました。ピリピの町の人は毎日それを見て知っていたのです。ですから、パウロがここで守ると言うとすぐにわかったのです。つまり自分たちの町が守られているように、自分の心や思いがキリスト・イエスによって神から守られるという意味だということが彼らに分かったのです。」(竹森満佐一、『講解説教・ピリピ人への手紙 下』、日本基督教団出版局、1990年、369頁f)

この世のあらゆる軍隊よりも絶対的な力をお持ちの神さまが、その無限の愛と義をもって守っていてくださいます。