静まりの時 ルカ1・39~45
日付:2023年12月04日(月)
それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
そして大声で叫んだ。
「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
(39-45)
昨日も礼拝のお言葉としてともに学びましたが、不安と孤独の中に置かれたマリアさんは、エリサベツのことを聞くと、急いで山を越えてエリサベツに会いに行きました。誰にも打ち明けることのできない心を、分かち合うことのできるであろう隣人を求めて、急ぎました。果たして、大きな慰めを得ることが出来たのですが、それに先立ち、自分自身が祝福する者として遣わされたことを知りました。神さまは、マリアを孤独の中に置きっぱなしにはされなかったのです。また不安の中にあったマリアさんを、祝福する者、として神さまは用いて下さいました。
神さまは、友というには、少し年齢を超えてはいるのですが、まさしく「友」をマリアさんに与えて下さいました。そこから始まった共同生活は3か月に及びました。この二人の女性の交わりから、神さまは世界を変えるご自身の御業をお始めになりました。
エリサベツから語られた一つの言葉が心に留まります。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
聖書はさまざまに、幸い、を語っています。まず思い浮かぶのが山上の説教での八福ではないかと思います。ルカの福音書では6章20節にそれが記されています。ほかにも、幸い、と記される言葉は、いくつか挙げることが出来ると思いますが、その一つがこのエリサベツの言葉だと思います。
主によって語られたことが実現した人は幸いです、というのではありません。主によって語られたことは必ず実現すると「信じた人」が幸いである、というのです。たとえ主によって語られたことが実現したとしても、それが「信じた」ということの中に実現したことでないならば、幸いとは言えない、のです。あるいは、主によって語られたことがたとえ実現しなかったとしても、「必ず実現すると信じた人」は、幸いなのです。
人間の幸いは、信じる、ということにおいて確かにされる、ということなのです。
何を信じるのか。「主によって語られたこと」を信じるのです。それは主ご自身を信じるということです。主のことばは、確かである、と信じる、ということは、主ご自身を信じることなのです。
信じるといっても、その中身はいろいろだと思います。聖書は、主を信じるということは、信頼することである、といいます。そこで、主を信じることは、主を信頼することであって信用することとは少し違う、ということを考えてみたいと思います。ネットで、信用と信頼の違いで検索するといくつか出てきます。
例えば、人を信用する、ということは、その人物の過去の実績、言動を鑑みて、信じるに価する材料、証拠を見つけた上で成り立つものです。それに対して、人を信頼する、といった場合、その人の過去はどうであれ、これからに向かっての期待や希望が語られていると思います。
神さまを信じるといった場合、私たちは、神さまに対して信じるに値する証拠を上げていって、確かに信じることが出来る、と結論したことなのか。それは、信用しようとしているかもしれませんが、信頼する、信じて御頼りする、ということにはならないのです。
聖書が、神さまを信じるという場合は、信頼する、ということを語っているのです。確かに神さまは信用するに値するお方であることは事実だと思います。しかし私たちがすべき「信じること」は、私が、神さまを完全に知ることは出来ない限界ある人間に過ぎない、ということが前提とされて、その知るということにおいて限界のある存在が、神さまを信じようとするということですから、信じるに値する証拠を数えることから自由にされて、私の全てをお委ねしていく、ということです。
神さまは、物でもなくルールでもなく、人格をお持ちで、生きておられ、私たちを愛し、私たちと共に生きることを喜びとされるお方なのですから、その神さまを信じるということは、限りなく信頼するということにおいて成り立つのです。
もし神さまを信頼せずに、信用しよとしているだけならば、そこにはキリスト教信仰は生まれない、と言わなければならないのだと思います。
マリアさんに向かって語ったエリサベツの言葉、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」は、あえて意訳をするとすれば、
「主によって語られたことは必ず実現すると信頼した人は、幸いです」であって、
「主によって語られたことは必ず実現すると信用した人は、幸いです」ではない、ということになります。大きな冒険の言葉だと思います。しかしマリアさんはそうしたのです。そこに幸いがあると聖書は語ります。
未来を想像し不安を覚えるとすれば、その不安は、私の想像の産物でしょう。次の瞬間に世界の終わりが来たなら、その不安はそもそも存在しないものであったことは明らかです。私たちは、いま、ここ、に生きているのです。いまのこの瞬間を生きている、その連続が人生です。そうであれば、いまをより幸せに生きるためには、どうなるか分からない未来のことを否定的に想像するのではなく、明るく想像すればよいのではないか。否定的に想像しても、明るく想像しても、結局なるようにしかならないとすれば、明るく想像した方が、いまの瞬間を幸せに生きることになる。
明るく想像するとしても、現実から目を離して生きていては、しっかりと生きることは出来ないので、現実から目を離すことはしてはいけないと思います。その上で、それらを永遠に生きておられる神さまにお委ねすること。主によって語られたことは、必ず実現すると、主御自身への信頼に生きるならば、それが可能なのだと思います。なんと幸いなことでしょう。あすはどんな日か分からなくても、明日を守られる主が、いまここに私と共にいてくださいます。