ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った

静まりの時 第2サムエル6・12~15
日付:2023年12月01日(金)

「主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。
(12~15)

 ペリシテ人への圧倒的な勝利の後(5・25)、ダビデは、イスラエルの精鋭3万を集めて、神の箱をユダのバカラから運び上げようとしました。神の箱は、新しい荷車に乗せられました。アビナダムの子であるウザとアフヨの兄弟が、その荷車を御す役目に任じられました。荷車の周りでは、様々な楽器による音楽が奏でられています。ダンスチームも、喜び躍っています。ダビデを先頭に華やかなパレードがイスラエルの全家を上げて繰り広げられました。
 その華やかなパレードに思いもかけない出来事が起こりました。ナコンの打ち場まで来たとき、神の箱を引いていた牛がよろめいたのです。神の箱が乗せられていた荷車を御していた二人のうちの一人ウザが、思わず神の箱に手を伸ばしてつかみました。神の箱が荷車から落ちないようにとのとっさの行動だったのだと思います。
 驚くべきことに、このウザに向かって主の怒りが燃え上がり、ウザは神に打たれ死にました。なんということでしょう。理解しがたい恐ろしいことです。

 聖書はこのウザの行動を「過ち」(7)と語ります。欄外の註には「不敬の罪」と書かれています。新改訳第3版では「不敬の罪」と訳されていました。

 神の箱が落ちないように案じてそれを抑えたことが、死に値するほどの罪なのだろうか。ウザは荷車を御すように任じられたのだから、その責任を果たそうとしただけではないか。もし神の箱が荷車から落ちるようなことがあれば、それこそ大きな問題なのではないか。などなど。大いに疑問を持ちます。
 神さまはときに寛容なお姿で人間に向き合ってくださいますが、ときに想像を超えた厳しさをもって立ち向かってこられます。いったい神さまの本当のお姿は何なのだろうか、と不安になることでもあります。

 アナニヤとサッピラ(使徒5章)のことでもそうなのですが、聖であり義である神さまは、本来罪に対してかなり厳しいお方なのだと思います。その倫理基準は、時代の中で変化してしまう私たちのそれとは大いにかけ離れた高いものをお持ちになっておられるのだと思います。ですからひとたびその聖さが発動されたならば、人間はひとたまりもないことになってしまうのだと思います。
 とすると、アナニヤとサッピラ以上に、あるいはこのウザ以上に、不敬の罪、を数々犯しつつ生きてしまっている私が、こうして生きているということは、まさに神さまのあわれみなのだと思います。神さまの忍耐なのだと思います。もったいないことです。生きている、ということだけで、そこに神さまのあわれみがあるのです。ウザには気の毒なのですが・・・。ウザは身をもって神さまの聖さを私たちに知らせてくれている、ということかもしれません。

 さて、こんな出来事が起こりましたので、ダビデは、神の箱を自分のところに運び入れることを恐れました(9)。それで、ガテ人オベデ・エドムの家に神の箱を回しました(笑)。この辺がダビデの人間くさいところで、憎めないところなのですが、オベデ・エドムの方は、王の命令とはいえ、恐ろしいことだったでしょう。神の箱は3か月の間、オベデ・エドムの家にとどめられることとなりました。
 断ることのできない理不尽な命令を受けざるを得なかったオベデ・エドム。しかし主は、そのオベデ・エドムの家を祝福されました。オベデ・エドムの家だけではありません。彼につながる全家を祝福されたのです。オベデ・エドムはびっくりしたと思います。良かったですね。

 そのことがダビデに知らされました。するとダビデは、オベデ・エドムの家に行って、喜んで神の箱を自分の町に運び上げました。ちゃっかりしています。主の箱を担ぐ者たちが6歩進むごとに牛をいけにえとして献げたといいますから、えらいことです。その歓迎ぶりは尋常ではありません。こうして当初の予定通り主の箱が「ダビデの町」に運び上げられたのです。

 ダビデは亜麻布のエポでを身につけて「主の前で力の限り跳ね回った」(14)といいます。
 この出来事は、ペリシテ人との戦いに勝利したことによります(5・25)。そのペリシテ人との戦いは、なぜ起こったのか。それはダビデがユダばかりではなくイスラエルの王になったことによります(5・17)。
 イスラエル全家の王となったことが、戦いを生んだ。しかしその戦いに勝利した。まさに王としての実力が発揮された。ダビデとしては誇らしいことだったと思います。この上神の箱を、ダビデの町、自分の町に運び入れれば、その権力はゆるぎないものとなるでしょう。主の箱を自分の町に運び入れることは、王である自分がまさに王であることを世界に向かって明らかにすることだったのだと思います。しかしウザのことを通して、あらためてまことの王が誰であるのかが明らかにされました。
 そうして主の箱を迎え入れたこの喜び。それは当初、自分の権力がゆるぎないものとなることの喜びとは、根本的に違うものだったのだと思います。まことの王が来られるとの喜びだったのだと思います。ダビデはまさに喜び躍りました。
 ダビデの町に来られるべきまことの王とは、どなたであるのか。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2・11)

 主のご降誕を喜ぶ季節を迎えます。私たちもダビデのように、「主の前で力の限り跳ね回る」ように、喜びの季節を迎えたいと思います。私が王となることによっての喜びではなく、まことの王として、いと小さき者として、私たちのところに来てくださったイエスさまを心から喜びたいと思います。