静まりの時 ゼカリヤ9・9,10
日付:2023年11月30日(木)
9 娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、
柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。
10 わたしは戦車をエフライムから、
軍馬をエルサレムから絶えさせる。
戦いの弓も絶たれる。
彼は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、
大河から地の果てに至る。
(9,10)
救われるということは平和に生きることであり、平安に生きることです。
救われることによって、平和に、平安に生きることが出来る、ということでもありますが、救われているということそのものが、平和に生きる、平安に生きるということだと思います。救われていると言いながら、周りには戦いがあり、心には平安がないというのは、救われていないことなのではないか。
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16・33)
主イエスさまはこのように語られましたので、救われた者にも世にあってはある意味で戦いがあるのです。しかし苦難の中にも平安がある、平和が失われることがないのは、世に勝利されたお方がともにいてくださるからです。私たちは、この世に勝利されたお方であるイエスさまを離れては平安に生きることが出来ません。
ともにいてくださるイエスさまとはどのようなお方であるのか。ゼカリヤ書は「義」なるお方であり「柔和」な方である、といいます。戦車や軍馬をなくし、おおよそ戦いの道具を絶ち、ただ義と柔和をもって治めてくださる、それが、イエスさまが築いてくださる平和であり平安です。私たちは、このイエスさまを私の王としてお迎えして、まことの平和と平安に生きる者とされます。
「義」は正しいという意味ですから、正しさを成り立たせるためには、ときに権力や、あるいは武力も必要となるでしょう。一方「柔和」とは、やさしい、柔らかい、という意味ですので、戦いというイメージからは程遠い感じがします。「義」と「柔和」は対極にある言葉ではないかとも思えてきます。
この一見対極にある言葉が一つになりました。それが主イエスさまの十字架の言葉です。
義と柔和、あるいは、義と愛は一つになったのです。あるいは義と柔和が一つになったのが愛、神さまが教えてくださったまことの愛、アガペーの愛なのだと思います。
神さまは、罪を見過ごしにされるお方ではありません。しかしその罪を解決するために、罪を犯した人間ではなく、人間を創造した自らを罰するということによって、赦しを実現しようとされました。そのために、天から降り、人間と共に生きる道を選択されました。私たちの罪の一切を背負って十字架に架かられました。その主イエスさまを、父なる神さまは復活させ、この十字架の御業がまさに神さまの御業であったことを明らかにされたのです。罪と死は、もはや絶対的なものでなくなりました。罪と死に勝利された主は、私たちに、世の終わりまでともにいるとお約束下さいました。この十字架と復活において神さまの愛が完全に明らかにされたのです。
主が、私の王として共に生きてくださる。私たちはこの主を、私の王としてお迎えする。そうして救われた者として生きることが出来るのです。平和と平安に生きることが出来るのです。
ただ救われてもなお、このお方を王としないことの誘惑、欲望、願望が依然あります。主イエスさまを王としない、ということは、自らを王としてしまう、ということです。そうしてせっかく救われたにもかかわらず、平和と平安を失ってゆくのです。
朝に祈り静まるのは、主イエスさまが私の王であることを確かにするためです。いつも、私の王は主イエスさまであることを確かにしつつ一日を歩むときに、私たちは平和と平安に生きる者なるのです。
義であり柔和である主イエスさまが、今日もともにいてくださいます。