静まりの時 詩篇128・1~6
日付:2023年11月17日(金)
都上りの歌。
1 幸いなことよ
主を恐れ 主の道を歩むすべての人は。
2 あなたがその手で労した実りを食べること
それはあなたの幸い あなたへの恵み。
3 あなたの妻は 家の奥で
たわわに実るぶどうの木のようだ。
あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき
まるでオリーブの若木のようだ。
4 見よ 主を恐れる人は
確かに このように祝福を受ける。
5 主がシオンからあなたを祝福されるように。
あなたは いのちの日の限り
エルサレムへのいつくしみを見よ。
6 あなたの子らの子たちを見よ。
イスラエルの上に平和があるように。
幸いとは何か。それは主を恐れる(畏れる)こと、そして主の道を歩むこと。主を恐れ、主の道を歩むならば幸いがやってくる、というのとは少し違って、主を恐れることそもの、主の道を歩むことそのものが幸いであると歌います。
自分で労苦して得た実りを、自分が食べることは当然のことのようですが、しかし詩篇著者は、それが幸いなことであり恵みなのだ、と歌います。自分で労苦した実りを自分が得ることは、けっして当たり前のことではないのです。ですからキリスト者は食事のときに、神さまに感謝を捧げます。
妻が家の奥でたわわに実るぶどうの木のようであること。ちょっとジェンダーギャップを考えてしまいますが、家の奥で家事に勤しんでいる、というよりも、単純に子だくさんを語っているのかもしれません。もちろん今日、子どもがいるかいないかは、幸せの基準ではありません。しかし当時は、自分の幸せと家族の幸せが密接に結び付いていたのだろうと想像します。
妻がぶどうの木になぞらえられていることに対して、子どもたちは、オリーブの若木になぞらえられています。
あるラジオ番組を聞いていて、聖公会の牧師さんがオリーブの木のお話をされていました。それによるとオリーブの木は、若枝が出ると、外から木自体を包み込むように伸びていくそうです。そうして次々に出てくる若枝に守られながら木全体が一つの家族のように成長していくとのこと。食卓の風景がそのように表現されているのでしょう。
主への畏れに生きる人は、このように祝福を受けるといいます。すなわち、家族、あるいは共同体としての祝福に生きることが出来る、ということなのでしょう。
共同体としての祝福は、家族にとどまるものではなく、さらに、シオンからの祝福、そしてエルサレムへの愛、子孫、イスラエル、と広がります。
一個人の祝福は、家族の祝福、地域社会の祝福、国家の祝福、そして世界全ての国々の祝福と深く結びついています。自分の幸いのために、共に生きる人が苦しむとすれば、それは聖書的な祝福ではありません。国際紛争が絶えませんが、真実の平和のために祈らなければなりません。