静まりの時 第一コリント3・10~17
日付:2023年10月26日(木)
「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(10,11)
伝道者パウロは、コリントの町に生きた幾人かの人びとを信仰に導きました。それは「土台を据えた」ということであって、その上の建物は、「ほかの人」が建てるのだ、とパウロはいいます。土台はイエスさまである、その土台は変えることが出来ない、据えられた土台は決して変わることがない、イエスさまは永遠に救い主としてあなたの信仰の土台に据えられている、といいます。
「だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」
(12-15)
土台に据えられたイエスさまは変わらないのですが、その上に建てた建物は、それぞれによって違いが生まれてくる、といいます。三匹の子豚を思い起こします。オオカミがやって来たときに、その建物の真価が明らかになるように、「その日」「火」によって、信仰の真価が明らかになるのです。救われたということは決して奪われることはないのです。しかしその信仰生活は、信仰の建て方によって、報われ方に違いが生まれる、というのです。恐ろしいことです。キリスト教信仰は、救われたから、どのような生き方をしていても自動的に祝福された人生が生まれるということではない、と聖書は語っているようです。
教会もそれと同じでしょう。土台はイエスさまです。それは変わることがありません。しかしその上に建てる建物は、さまざまです。見える教会、見えない教会。どのような教会のあり方、信仰告白、教理、礼拝スタイル、などなど。「その日」「火」によって真価が試されたときに、しっかりと立ち続ける教会であるかどうか。
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」
(16,17)
土台がイエスさまであり、その素晴らしい土台の上に信仰生活を建て上げていく私たち。その私たちは、ここであらためて「神の宮」である、と言われています。神さまの御霊がすでに住んでいてくださる、それが自分自身である、というのです。
イエスさまを信じた者はすべて御霊が住んでいてくださいます。聖霊が住んでいてくださるのです。それは、自分が感じること、によって知るのではありません。信仰によって知るのです。私の五感が、さらに第六感(笑)が、御霊を感じることができなかったとしても、私の内にはご聖霊さまが住んでいてくださるのだ、と信仰を持つのです。そうして、知る、ことができます。
神の宮は聖なるものです。聖なるもの、というのは、聖いという意味もありますが、何よりも、神さまのものとなった、ということです。私たちはつねに神さまの御手の中にあります。
他のキリスト者が神の宮である、ということも大切ですが、ここでパウロは、何よりも自分自身が神の宮である、ということを分からせようとしています。ちょっと極端な言い方をするならば、誰彼のことはとりあえずわきに置いておいて、まず自分自身が神さまの宮なのだ、神さまの御手の中にあるのだ、ということをパウロは知らせようとしています。自分が神さまのものである、ということが、分かっていないことが、コリント教会にあった数々の問題の根っこにあった、問題の原因であった、ということでしょう。
だからその神の宮である自分自身を滅ぼすようなことをしてはいけない、といいます。もしそういうことをするならば、神さまがその人を滅ぼすであろう、といいます。恐ろしいことです。脅しのようにも聞こえるかもしれません。しかし私は、親がわが子に語るように思います。どうにでもなれ、とは思っていないのです。愛しているからこそ、このように語るのです。
何があっても建ち続けることのできる教会、そして何があっても倒されることのない信仰者。その力はどこにあるのか。どのようにして生まれるのか。育まれるのか。
竹森先生はこの個所の講解説教で以下のように書いておられます。
「教会の力は、どこにあるのでしょう。人数でしょうか。財力でしょうか。この世に知られた人がいることでしょうか。そうではなくて、礼拝する力を持っているかどうか、ということである、と思います。しかも、それは、教会が、整えられた立派な礼拝をすることができる、ということだけではありません。礼拝には、その教会の総力があらわれます。その教会に属するひとりびとりの信仰があらわれてくるはずであります。それなら、教会員おのおのの信仰生活が、問題になってくるはずであります。自分で、自分の信仰生活について考えることが、大切になるのであります。」
(竹森満佐一、『講解説教・コリント人への第一の手紙』、新教出版社、1988年、122頁)
礼拝に、その教会の総力があらわれる、とあります。その教会がどのような建てられ方をしているかは、礼拝を見ればわかる、というのです。そこに信仰者一人ひとりがどのような信仰を持ち、信仰生活を送っているかが明らかにされている、というのでしょう。それはまた、それぞれの信仰者が、自分自身が神の宮であるということが、どれだけ分かっているか、ということも明らかにされているところ。それが礼拝なのだということでしょう。
礼拝は、自分が神のものである、ということを明らかにする(される)ところ、なのです。神のものである、ということを不鮮明にしてしまうこと、すなわち、人間の願望や、人間の楽しみを満足させるためだけのものとなってはいないだろうか、と考えていくことは大切なのだと思いました。
昨日は、30年を超える日本での奉仕を終え、現在は母国ドイツにて宣教師派遣の奉仕をされている宣教師が来日され、私たちの教会を訪問下さいました。2時間ほど、スライドを交えて楽しいお話をしてくださいました。印象に残ったのは、ドイツの村には共同の石窯があり、誰が使ってもよいそうですが、最近は使う人がいなくなっている、その石窯を使ってみんなでたくさんのパンやピザを焼いた、ということでした。集いの後、みんなで町のインド料理のレストランに行きました。美味しいカレーをいただきながら、ここでも楽しい食卓を囲むことが出来ました。幸せを感じる一日でした。いろいとご配慮、ご準備くださった皆さんに感謝します。