静まりの時 使徒17・22~25
日付:2023年10月27日(金)
「パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。
『アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られていない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」
(22~25)
使徒パウロは、アテネの町でシラスとテモテの二人を待っています。この待っている時に起こったことです。人生の大半は待つことであると誰かが言いました。そうであるとすると、人生のいろどりは、この待つ時間をどのように過ごすのかによって、違いが出てくるということでしょう。待つ時間を幸せに過ごすならば、人生を幸せに過ごすことになり、逆であれば幸せに過ごすことにならないのです。信号待ちの時も、無為な時と過ごすのか、それとも神さまが与えて下さった大切な時として過ごすのか。パウロは、この待ち時間において、大切な時を過ごすことになりました。そして、のちのちキリスト教信仰の重要な要点を明らかにすることとなりました。
パウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て「心に憤りを覚え」(16)ました。しかしその偶像を破壊しようとしたり、その偶像礼拝に生きる人たちを否定しようとしたりはしません。むしろこう語るのです。「あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております」(22)。
これは決して皮肉ではありませんし、人びとの心を引き付けるためのリップサービスでもありません。パウロはアテネの人たちのなかに、本当に「宗教心のあつさ」を見ていたのです。
人間はすべて神さまによって造られたものです。ですからその神さまにお出会いしない限り人生の飢え渇きを満たすことが出来ません。
「あなた(神)は、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである」(アウグスティヌス、『告白(上)』、服部英次郎訳、岩波書店、1975、5頁)
それで人間はさまざまな形で、神、を求めようとします。それは、まことの神に出会うまでは、当然、偶像に向かうことになります。パウロはそれを決して否定的に見ないのです。宗教心のあつさ、と見るのです。そして「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう」と語ります。素晴らしい伝道説教が始まります。
伝道というのは、おおよそ、愛すること、なのです。福音を伝えるということは、愛を伝える、ということなのです。愛を伝えるのに、最初から対立構造を作ってしまっては、伝わることも伝わりません。相手を受け入れること、愛することから始めなければなりません。それは伝道のテクニックというような表層的なものではなく、真実の愛でなければ、伝えることのできないものです。パウロは、アテネの人びとを深く愛したのだと思います。
では16節に記されている「心に憤りを覚えた」という憤りはいったい何に向けてであったのか。アテネの人びとに向かってでないことは明らかです。この憤りは、せっかく神さまに造られたお互いであるのに、その神さまに出会えず、迷い出てしまっている、そのようなサタンの支配そのもの、罪そのものへの憤り、ということが出来るのだと思います。
世界に紛争があります。さまざまな立場を超えて、そのような状況のなかに生きることになっていること自体に私たちは憤りを覚えなければならないのだと思います。そのような状態事態をサタンはどれほど喜んでいるのかに気づかなければなりません。為政者が悪い、宗教指導者に問題がある、こっちが悪い、あっちに問題がある、などと言っていては決して解決することがありません。
さて、アテネの人たちに向かって「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」を教えましょうと語りはじめたパウロは、彼らにまことの神さまを紹介します。パウロの神さま紹介は俊逸です。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」(24,25)
偶像のむなしさを語ること。そして神さまのすばらしさを語ること。それは異教の神とまことの神を並べて、どちらが優れているか、ということではありません。人生の飢え渇きにより求めているものが、結果的に的外れになってしまっていることを示しつつ、本当の神であれば、もっと素晴らしい存在であるはずでしょう、と語るのです。
偶像礼拝は、どこまでも偶像礼拝をしている人間自身が私自身が神となることなので、結局、自分の魂の充足のために、自分が何かをする、ということに終始することになります。しかし本当の神であれば、その神は自分の魂を充足してくださるお方なのですから、私たちが何かをするというではなく、神さまがすべてをしてくださる、という礼拝行為、そして生き方になるはずです。
礼拝は英語で「サーヴィス」といいますが、日曜日の礼拝も、私たちが神さまにサーヴィスするのではなく、神さまが私たちを招き、私たちは、神さま備えてくださった食卓にあずかることです。そうして神さまのいのちに出会うことなのです。もし私たちが、神さまに何かをしてあげなければならないとの思いから礼拝を捧げようとしているとすれば、それは純粋な信仰心、信仰心のあつさをあらわしているかもしれませんが、どこか偶像礼拝に陥る危険性があるのではないか、と思いました。
神さまのために、という心は美しいものです。しかしそれも、まず私が神さまに満たしていただいた、ということが前提となってはじめて成り立つことです。
良い天気が続いているので、夕刻のウォーキングは、空に浮かぶ月を見上げながらとなります。そろそろ満月となります。ひと月という言葉の通り、前回の満月から一か月が経つのですね。