人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる

静まりの時 マルコ14・53~58
日付:2023年10月25日(水)

すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
(57-59)

 イスラエルの神殿は、三回建てられたようです。一回目はソロモン王の建てた神殿。それが捕囚の時期に破壊され、再建されたのが捕囚後。これが二回目。この二回目の神殿は、ソロモンのそれに比べていまいちな感じがしたようです。三回目は、ヘロデの建てた神殿。これはイエスさまの時代の神殿で、先の神殿をしのぐほどのものであったとのこと。この三回目に立てられた(改築された)神殿の外壁で現存しているところは、現在嘆きの壁と呼ばれています。
 イエスさまが、このヘロデの建てた神殿を壊して、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる、といわれたことばが、イエスさまを十字架につけるために、証言として語られています。どうしてこれが、一人の男を死刑にするための証言となり得るのか。
 この神殿を壊す、というイエスさまのお語りになった言葉は、

「イエスは彼らに答えられた。『この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。』」(ヨハネ2・19)

と、ここに出てきます。

 その後イエスさまが十字架にかかられたときには、通りすがりの人たちのののしりの言葉として登場します。

「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。』」(マルコ15・29,30)

 ここから想像できることは、当時のユダヤの人にとって神殿というものがいかに重要なものであったのか、ということだと思います。
 例えば、あなたの家を壊します、と言われると、その言葉の問題は、器物損壊という強迫、ということだと思います。これに対して、教会を壊します、と言われると、それはキリスト教信仰そのものの破壊を予感させます。当時のユダヤの人にとっては、神殿は特別な意味を持っていて、自分たちのアイデンティティとか、存在意義とか、なにか大きなものがあったのだと思います。それを壊すと言われたのですから、とんでもないことです。
 この神殿を壊すという言葉が、イエスさまを死刑にするに十分な証言であったのです。

 ではなぜイエスさまはこんな乱暴なことを言われたのか。

 イスラエルにおける神殿は、それが建てられたときに、ソロモンが祈ったように、ここには神さまはお住みになりません、というのが習わしで、偶像化してはいけないものでした。確かに神殿での祈りを聞く、と神さまは言われたのですが、しかしあくまで神殿は人間の造ったものであって、神さまではありません。偶像化してはいけないのです。しかし当時のユダヤの人びとにとっては、やはり偶像となっていた、ということだったのでしょう。ヘロデ王も、そのような群衆の願望を、自らの権力のためにうまく利用しました。

 イエスさまは、神殿を壊す、という言葉で、まことの神さまへの信仰に生きるようにと語られたのだと思います。事実、イエスさまは十字架ののち三日目に甦られて、私たちの贖いを成し遂げて下さいました。そうして、十字架と復活を信じる私たちは、神の宮、神殿となったのです。人の手にはよらない神殿としていただいたのです。

 キリスト教会では、会堂建設の時には、ソロモンの祈りを祈るところが多いのではないでしょうか。一般的に宗教施設が完成すると、そこに神や仏が住む、ということを明らかにする落慶法要などが営まれることですが、ことキリスト教だけは、宗教施設を完成すると、まず最初に、ここには私たちの神さまはお住まいになりません、という祈りをささげるのです。
 これは神殿という建物だけに限りません。土地、行事、習慣、流行などなど、偶像化されやすいものに私たちは囲まれています。私たちが信じる神さまは、いずれをも超えておられる大いなるお方であることを忘れないでいたいと思います。