わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける

静まりの時 第二歴代誌7・11~16
日付:2023年10月24日(火)

今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。今、わたしはこの宮を選んで聖別した。それはとこしえにわたしの名をそこに置くためである。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
(15,16)

 建て上げられた神殿でささげられる祈りに、神さまは、自分の目を開き、耳を傾ける、と言われます。またその神殿を聖別した、すなわち神さまのものとした、と言われます。それは、わたしの名を置くためである、わたしの目と心はいつも、その神殿にある、と言われました。
 建て上げられた神殿。すなわち一つの場所が特別なものとなりました。神殿には神さまの名が置かれていて、神さまの目と心がいつもそこにあるのです。

 昨日も考えましたが、神さまへの祈りはどこでなされてもよいのです。神さまはどこでささげられる祈りでも聞いてくださいます。しかし一つの特定の場所が定められたことによって、人間の祈りに対する態度が変わることになりました。依然どこであっても自由に祈れることには変わりがないのです。しかしそれとは別の祈りが生まれたということかもしれません。自らの体を運んで、人びとと調整をしながら、共同体の中で祈る、ということが生まれました。それまでの幕屋とは違う信仰生活が生まれた、ということでしょうか。こうして、祈りは共同体の祈りとなっていきます。たとえば詩篇は、個人的な祈りと賛美のようにも読めますが、その背景には信仰共同体があるのです。

「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり 主の会衆において。」(詩編111・1)

 プロテスタント教会では、牧師館と一緒になっているところもあり、セキュリティーの問題もあって週日は施錠されているところも多いと思います。カトリック教会などで、司祭館と礼拝堂が別になっているところは、たいてい一日中解放されています。礼拝堂の前には、礼拝堂は皆さんの祈りの場所です、どなたも自由にお入りください、などといった意味の言葉が書かれています。旅に出た時に、近くに会堂がある場合は、時々訪れることがあります。短い時間ですが、礼拝堂に座っていると、その間にも、ぽつりぽつりと入ってきて祈りをささげられる方がおられます。カトリック教会の礼拝堂には、たいてい「十字架の道行(みちゆき、道程)」があるので、黙想の手助けになります。私たちの教会堂も、できるだけ多くの人びとのための祈りの場所であってほしいと思います。私のいるときはたいてい玄関を解放しています。時折、祈りに来られ、しばらく静まってゆかれる方がおられます。
 そして日曜日、主の日の礼拝においての祈りは、個人的な祈りとは違って、主の会衆においての祈りの時です。主の目と主の心がそこにあることを信じて、主にお出会いするときです。一対一で主にお出会いすることであるとともに、信仰の仲間とともに主にお出会いするときです。