あなたこそ神である主です

静まりの時 ネヘミヤ9・4~8
日付:2023年10月04日(水)

あなたこそ神である主です。
あなたはアブラムを選んで
カルデア人のウルから連れ出し、
その名をアブラハムとされました。
彼の心が御前に忠実であるのを見て、
あなたは彼と契約を結び、
カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、
エブス人、ギルガシ人の地を
彼の子孫に与えるとされました。
そしてその約束を果たされました。
あなたは正しい方だからです。
(ネヘミヤ9・7,8)

 捕囚期後、城壁が完成すると民は礼拝を捧げました。罪の告白をし神さまへの賛美を捧げました。その賛美の中の一節です。
 神さまはカルデア人のウルに住んでいたアブラムを連れ出され、その名をアブラハムとされました。アブラハムの心が神さまに忠実であるのをご覧になられて、神さまはアブラハムと契約を結ばれました。その契約とは、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の地を彼の子孫に与える、というものでした。神さまは、その通りに約束を果たされました。これらの地はアブラハムの子孫、すなわちイスラエルの地となったのです。神さまがアブラハムと結ばれた契約を果たされた理由は、ただ神さまが正しいお方だったからだ、と民は歌いました。

 神さまが契約を全うされるのは、神さまご自身が正しいお方、義なるお方だからです。私たちが正しい者だから神さまの約束が果たされるのではありません。
 そして、その義なる神さまに対して私たちに求められることは、アブラハムのように「心が御前に忠実である」ことです。心が御前に忠実である。これが神さまの前に歩む者のありかたであり、そのあり方が、神さまの御約束がことごとく果たされていく人生への道、を拓くのです。
 この「忠実」と訳されている言葉は、共同訳2018では「真実」と訳されていました。神さまの前に真実である、そのことを神さまご自身が私の内に発見してくださるということ。私が私の内に私の真実さを発見するのではなく、私は私を見てそのどこにも真実を発見することが出来ないのだけれども、そのような私に神さまが真実を発見してくださる、ということ。ここに真実という言葉の意味があるように思います。
 アブラハムのうちに神さまが発見された真実とはいったい何なのか。

「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」(ヘブル11・8)

 アブラハムの真実とは、カルデア人のウルから「どこに行くのかを知らずに」出発したということです。自分の慣れ親しんだ故郷から出発をする。それは「私」というものから出発する、脱出する、ということ。どこに行くかは知らないでよいのです。どこに行くかは神さまがご存じなのですから。ひたすら神さまにお委ねをして、自分から出て行くということ。そこにアブラハムの忠実、真実を神さまは見られたのです。

「・・・『神は最高の真理であるから、謙遜は真理のうちに歩むことである』と。私たちは何もよいものを持たず、あわれさと無に過ぎないことは本当に大きな真理です。これが分からない人は偽りのうちに歩みます。」
(アビラのテレジア、『霊魂の城』、「第六、10章7節」、聖母の騎士社、1992年、351頁)

 簡単に言うと、真実というのは謙遜のことである、とアビラのテレジアは語りました。アブラハムは忠実であったというのは、それは神さまの前に謙遜であったということと同じでしょう。自分を義としない、正しいとしない、神さまが正しいお方であるとする、だからカルデア人のウルからどこに行くのかも知らないで出発するのです。どこに行くかを確かめて、そこが良い地であると、自分が確認して出発するということでは、結局自分を正しい、自分の判断力を正しいとしているだけでしょう。

「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
(ルカ18・13,14)

 アブラハムが、カルデア人のウルから出発せよと言われた神さまの御言葉に従ったのは、この取税人のように、自分の内には義がない、という告白と同じだったのではないか、と思うのです。そしてこれが聖書の語る忠実、真実、ということではないかと。

「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」
(第一コリント1・9)