静まりの時 第二歴代誌7・1~3
日付:2023年10月03日(火)
ソロモンが祈り終えると、天から火が下って来て、全焼のささげ物と数々のいけにえを焼き尽くし、主の栄光がこの宮に満ちた。祭司たちは主の宮に入ることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。イスラエルのすべての人々は、火が下り、主の栄光がこの宮の上に現れたのを見て、膝をかがめて顔を地面の敷石に付け、伏し拝んで、
「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
と主をほめたたえた。
(第二歴代誌7・1~3)
「主の栄光が宮に満ちた」。ソロモンが建てた神殿は、荘厳できらびやか、他に類を見ないほどの素晴らしい建物だったのだと思います。しかしそれでも人間の作った建物でしかありません。その神殿に、主の栄光が満ちたのです。神さまは、その自由の中で、一方的な愛をもって、この神殿にご臨在しようと決意されたのです。まさに奇跡が起こりました。民はひたすら「膝をかがめて顔を地面の敷石に付け、伏し拝んで、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主をほめたたえ」ました。
「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」(ルカ1・26)
二千年の昔、神さまは再びこの地にご自身のご栄光を現してくださいました。しかしいよいよ神の栄光が現れるその時、宿屋には彼らのいる場所がなかった、と聖書は語ります。この地には神の栄光を受け入れる「場所」がなかったのです。
しかしそれでもこの「場所」の栄光を発見し、神さまを賛美する人びとがいました。
「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(ルカ2・8,9)
「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
『いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。』
御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。『さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。』」
(ルカ2・13~15)
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2・20)
神さまの栄光を見た羊飼いたちは、神さまを賛美しながら帰っていきました。ソロモンの神殿に神さまの栄光が満ちたのを目の当たりにした人びとが、神さまを賛美したように。
主イエスさまの受肉、十字架、復活によって、神さまの栄光は、いまや主を信じる一人ひとりの上に現れています。
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
(エペソ2・19~22)
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。」
(第一コリント3・16~18)
自分が宮でないとすることは、自分を欺くことです。自分を欺かないで、自らが神さまの神殿であること、神さまのご栄光が満ちている者であることを信じましょう。自らが神の栄光の満ちている宮であることを信じるならば、この世で知恵のある者だ、と言わなければならないことから自由にされ、愚かになることが出来るのです。自らが神さまの栄光を現す神の宮であることを信じる者は、愚かになることができ、人間をいたずらに誇ることからも自由にされるのです。
昨日と一昨日は、半年に一度の静まりの会に参加してきました。施設の庭にはこぶしの木が実を結んでいました。久しぶりの方々と、今年の夏は猛暑で大変でしたね、などと言っていたのですが、今朝は急に寒くなりました。