神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。

静まりの時 ヤコブ4・1~10
日付:2023年09月30日(土)

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ4・1~3)

 ヤコブが手紙を書き送ることになった教会には「戦いや争い」があったようです。罪びとである人間が集まるところでは、どこであっても大なり小なり戦いや争いが起こるのです。教会だけではありません。家庭であっても職場であっても、まったく戦いや争いがない、というところを見いだすことは難しいのではないでしょうか。
 ただ教会は神さまの愛に出会うところであるべきですから、教会で起こる戦いや争いはことさら残念なことであり悲しいことです。戦いや争いの原因はどこにあるのか。ヤコブは、それは「あなたがたのからだの中で戦う欲望」に原因がある、と語りました。
 戦いや争いごとが起こるには、何らかの原因があったのだと思います。しかしその具体的な事象自体が本当の原因ではない、本当の原因は、それぞれ人間の心の中に巣くう欲望である、罪である、というのです。ですからその罪が解決されない限り戦いや争いごとは解決されない、たとえ解決されたと見えても、また形を変えて起こってくる、ということでしょう。
 では欲望をなくしてしまえばよいのか。それはそうかもしれませんが、現実的ではありません。欲望の中には、自らを活かし、また集団を活かし、善に向かって前進する力もあります。欲望が全くなければ、何も生まれることがないでしょう。

「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」

 ここに「求める」ということについての二つの道が記されているように思います。一つは自分の欲望のままに求めること。もう一つは神さまの御心を求めつつ、神さまに求めていくこと。いたずらに自分の欲望のままに求めるということをしてしまうので、戦いや争いが生まれてしまう。それに対して神さまの御心を求め、神さまに求めていくならば、戦いや争いから自由にされるのではないか、と。

 神さまの御心を第一にして神さまに求めること。それは、私たちの内に住んでくださっているご聖霊さまを、神さまご自身がねたむほどに慕っておられること。神さまは、さらに豊かな恵みを与えて下さること。神さまの御心を第一にするとき、自らの欲望が満たされないこともあること。その悲しみや憂いを知ること。神さまは高ぶる者には敵対されること。しかしへりくだった者には恵みを与えて下さること。神さまに近づく者に神さまは自ら近づいてくださること。神さまを神とすること。自分を神としないこと。

 私たち罪びとは、神さまの御心を求めると言いつつも、どこかに自分の欲望を満たそう、自分が神のようになろうとしている部分を持っているのだと思います。そのような自分であることを神さまの前にわきまえて、まっすぐに神さまだけを求めることが出来るようにと祈りたいと思います。そこにこそ、戦いや争いではなく、喜びや自由、平安が生まれるのだと思います。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」
「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」

 からりと晴れ渡った夕ぐれに、植木等の「だまって俺について来い」を口ずさみながらウォーキングをしていると、刈り取られた田圃の先にオレンジ色の太陽が沈んでいきました。暗くなりかけた薄青色の空にはまだ月が出ていませんでした。夕食の途中でしたがお知らせ頂いた満月となる時間に外に出てみると、東の空にぽっかりと真ん丸のお月さんが浮かんでいました。私たちは太陽と月に挟まれていたのですね。