落胆している者には、友からの友情を

静まりの時 ヨブ6・14
日付:2023年09月29日(金)

「落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。」(ヨブ6・14)

 新改訳2017では、この「友情」という言葉に米印がついていて、欄外に「変わらない愛」との注釈があります。男女の愛、親子の愛などさまざまな愛がありますが、友情という愛は少し特別であると言われます。男女の愛には性的な結合が含まれます。親子の愛には切り離すことのできない血のつながりがあります。しかし友情にはそういうものは含まれません。性的な結合への欲求や切り離すことのできない血のつながりのない中での愛。それが友情における愛であるというのです。おおよそしがらみのない自由な選択の中で選び取られた関係の中に生まれるもの。それが友情なのです。ですから人間にはこの友情が必要です。
 男女の愛にも、親子の愛にも、それが確かな愛のかたちとなるためには、友情としての愛の部分が必要でしょう。男女の間に生まれる情熱もいつかは冷めてしまうものです。そこに友情が生まれるかどうか、人生の同労者としての愛が生まれるかどうかは大切なことです。親子の愛も、親から子へ注がれる愛も、互いに一人格として尊重されていくためには、この友情としての愛が必要に思います。子の親への愛も、庇護されることの安心感から、やがて庇護する者として自立するためには、友情的な愛が必要でしょう。友情を失うと、支配する者、支配される者となってしまい、健やかな愛に生きることを難しくさせます。

「われわれのそとにある、一つの共通の目的によって、同胞たちに結ばれるとき、われわれは初めて呼吸することができる。また経験は、われわれに教えてくれる。愛するとは、たがいに見つめ合うことではなく、ともにおなじ方向を見ることだ、と。」(サンテグジュペリ、『人間の土地』、訳・編:山崎庸一郎)

 人間には、この友情、すなわち変わることのない愛が注がれなければならない、とくに落胆している者、切望している者には、必要である、そうでなければ、全能者への恐れを捨ててしまう、失ってしまう、と聖書は語ります。全能者への恐れ、畏れ、畏敬の念、あるいは愛は、友情によって守られる、育てられるということでしょう。
 ヨブの苦しみの状況を聞きつけてやってきた三人の友は、ヨブのあまりの苦しみに言葉を失い、一週間黙してともに座していました。しかしやがて彼らが語り始めると、その言葉はヨブにとっては慰めになるどころか、裁かれているような苦しみの言葉となりました。ヨブは友が欲しかったのです。本当の友が。友情を見つけられないヨブは、全能者への愛を見失いかけてしまいました。

 このヨブ6章14節は、共同訳2018では以下のように訳されています。

「友への慈しみを拒む者は 全能者への畏れを捨てている。」(ヨブ6・14、共同訳2018)

 この訳によると、全能者への畏れを捨てているのは、友情を注がれなかった者ではなく、友情を注ぐことをしなかった者の方であるといいます。変わらない愛が注がれていないと愛が注がれなかった者は神さまへの愛を見失ってしまう。また、変わらない愛を注ごうとしない者自身も、神さまへ捨ててしまっているのだ、というのでしょう。あるいは変わらない愛を自分自身が見失っているので、友への愛を持つことが出来なくなっているということでしょう。
 変わらない愛。それが人間には不可能である、ということでしょう。全能者である神さまだけがお持ちのものなのです。神さまからの愛をいただいてこそ、私たちは変わらない愛に生きる者、変わらないを注ぐ者とならせていただけるのです。
 十字架と復活によって明らかにされた神さまの愛を私たちは皆等しくいただいています。この神さまに変わらない愛に生き、また絶望の中にある共に変わらない愛を語る者として遣わされたいと思います。

「友情は人間が受け取ることの出来る最も素晴らしい贈り物の一つです。共通の目的や利益、経歴を超えた絆です。友情は男女の結合が生み出す絆よりも強く、運命を共にするものを結ぶ絆よりも深く、結婚や社会的な絆よりも親しみを増すことすらあるのです。友情とは、喜びや悲しみの内にある人と共にいるということです。たとえ私たちが喜びを増すことが出来なかったり、あるいは悲しみを和らげることが出来ない時ですら、友情とは、愛に気高さと誠実さをもたらす魂の調和です。友情は人生のすべてを輝かせ、明るくします。友のためにいのりを捨てる人は幸いです。」
(ヘンリ・ナウエン、『今日のパン、明日の糧』より)