主は心の打ち砕かれた者を癒やし 彼らの傷を包まれる

静まりの時 詩篇147・1~20

日付:2023年10月05日(木)

主は心の打ち砕かれた者を癒やし

彼らの傷を包まれる。(3)

悲しみや苦しみの出来事によって心が砕かれたような状況に陥ることがあります。主はそのようなとき、誰よりも、そして自分自身よりもそばにいて、その傷を包んでくださいます。また自分の罪や咎によって心が打ち砕かれるということを経験します(詩篇51・17)。主はそのような時こそ、またそばにいてその傷を包み込んでくださるのです。

主は傷を包み込んでくださるお方です。病気で倒れて以来飲み続けることになった薬の関係で血液が凝固しにくいので、何かで傷がつき血が出て来るとなかなか止まりません。ようやくかさぶたが出来てくるとちょっとかゆみが出てきます。無意識のうちにかきむしるということになり、再び傷口が開いてしまいます。包み込むということはなかなか難しいものです。主は、ご自身の全能をもって瞬時に癒すこともおできになりますが、そうはなさらず、私の中にある回復力を信じていてくださいます。ただそっとその御手をもって包み込んでくださいます。傷をかきむしらずに包み込んでくださる主に委ねること。そのためには、傷自体を忘れてしまえばよいのかもしれません。あるいはそのために別のことに集中すればよいのかもしれません。主は私の知らないところで、癒していてくださいます。

主は心の貧しい者を支え

悪しき者を地面に引き降ろされる。(6)

心の貧しい者とは、主の前にへりくだった者、謙遜な者、という意味です。イエスさまが山上の説教で言われた「心の貧しい者」(マタイ5・3)と同じだと思います。主はそのような者を支えてくださいます。悪しき者、とは、それとは逆に自分を神とするような者ということでしょう。私が悪しき者、高ぶる者であるとき、高く積み上げられたものがその自重によっていつか崩れ落ちるように、主は地面に引き下ろされます。

地面に引き下ろされることは、必ずしも決定的な裁き、というわけではないでしょう。主は十字架に架かりよみにまで下ってくださいました。私が地面に引き下ろされる時、そこにも主はともにいてくださいます。主と共に下り坂を下ることもまた恵みの時です。自らに貧しさを取り戻すときです。

神は馬の力を喜ばず

人の足の速さを好まれない。

主を恐れる者と

御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(10,11)

馬の力とは古代においてはこの世の力の代表的なものだったのだと思います。今でも自動車の能力を表す単位に「馬力」を使います。馬力の大きい自動車はそれだけ速く走ることが出来ます。しかし神さまはそのような馬力を喜ばれません。人の足の速さ、スピードを好まれないのです。病気をしたおかげで、速く走る、ということが難しくなりました。できないことではないのです。しかしやってしまうと、後が大変で、しばらくしんどくて動けなくなってしまいます。意識的にゆっくり歩く、ということになりました。ゆっくり歩くとよいことがあります。景色が目に入ります。風を感じることが出来ます。空気のにおいや、大地を踏みしめる足の裏の感覚などなど。その時、その瞬間を味わうことが出来るようになります。マインドフルネスな時間を過ごすことが出来ます。

主を恐れる者、それは神さまの恵みを待ち望む者です。神さまの恵みを待つことが出来ず、性急に事を運ぼうとするとき、私は神さまへの恐れをどこかへやってしまっているのでしょう。神さまの恵みを待ち望む者、神さまに好まれる者でありたいと思います。

主は あなたの地境に平和を置き

最良の小麦であなたを満たされる。(14)

地境は何かと平和が乱される場所でしょう。国と国との地境は争いの場となりやすいことです。人と人との間も、地境、すなわち触れ合うとき、触れ合うところ、ことば、態度、雰囲気は大切です。また何よりも自分と自分の間という地境はどうだろうか、と考えます。自分に優しくしているだろうか。自分との間に戦争状態はないだろうか。自分の人生をしっかりと受け入れているだろうか、と。主はそのようなさまざまな地境に平和を置いてくださいます。そうして最良の小麦で満たしてくださるように、人生を実り多いものとしてくださいます。

限りある人生において実り多い者となりたいと思います。そのためにも、地境に平和を置いてくださる主と共に歩みたいと思います。

主はヤコブには みことばを

イスラエルには おきてとさばきを告げられる。

主は どのような国々にも

このようには なさらなかった。

さばきについて彼らは知らない。(19,20)

主は、主にある者を大切に扱ってくださいます。主は、みことばを告げられる、おきてとさばきを告げられる、という方法によって大切に扱おうとなさいます。みことばが告げられない、おきてとさばきが告げられない、ということは、大切に扱われていないことなのです。

傷を包み込むような優しいみことばが語られることもあります。しかしときに厳しく自らを矯正するようなみことばが語られます。主はまことの愛する子どもとして扱っていてくださるのです。ヘブル12・7

昨日は、文書伝道の出張販売、というのが行われました。思いのほか多くの方が来てくださり感謝でした。私も手に入りにくかった本を見つけることが出来購入することができました。神さまはいろいろなところに恵みを置いていてくださいます。あいにく希望の図書が見つからなかった方もおいででしたので、単純に喜んでいては失礼ですが、そっと喜んでおきたいと思います。文書伝道の方とお話しした中で、今年の夏は暑かった、先週も東海の教会をめぐっていたときに、まだセミが鳴いていた、夏が終わらないのかと思ったが、すでに来年に生まれるべきセミが、残暑を勘違いして出て来てしまったそうです、と言っておられました。セミの一生は短いと聞きます。暑さによって一年先まで続いたであろう命が今年限りで消えることになったということですね。猛暑の痛みは、被造物全体の痛みや苦しみとなっているようです。これも地球温暖化の影響でしょうか。この世界を治めよ(創世記1・28)と神さまから託された責任を私たちは果たせていない心苦しさを思いました。

かくして移動販売車「ゴスペルボックス」は夕ぐれのなか、次の予定地に向かって出発して行かれました。感謝な一日でした。

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