静まりの時 イザヤ2・3~5
日付:2023年08月10日(木)
3 多くの民族が来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を私たちに教えてくださる。
私たちはその道筋を進もう。」
それは、シオンからみおしえが、
エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、
多くの民族に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、
その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず、
もう戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、
さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。
(イザヤ2・3~5)
町の公園といえば、子どもたちの遊び場でしたが、今は、高齢者の多くが利用するようになったとか。遊具も子どもたち向けのものだけではなく、高齢者のストレッチや体力増進を目的にしたものも増えているそうです。公園デビューの意味も変わってきているのかもしれません。遊具には、利用対象年齢も表示されるようになりました。
いろいろな人が集うようになると、問題も起こるようになります。ボール遊びは、他の人の危険となります。犬の散歩にともなう排泄物の処理は、砂場の安全に欠かせません。自分のやりたいことが、周りの人に迷惑をかけることであるならば、いくらやりたくても自粛しなければならないでしょう。さまざまなルール作りがなされているようです。
今朝の御言葉は、すでに今週の月曜日にも読んだ個所ですが、特に3節以降が強調されています。
「多くの民族が来て言う。
『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を私たちに教えてくださる。
私たちはその道筋を進もう。』
それは、シオンからみおしえが、
エルサレムから主のことばが出るからだ。」(3)
神さまが成される平和は、神さまが教えてくださる主の道に、自らが進んで学び、その道筋を進んでいこうと志す者たちによって成り立ちます。個人個人が自分の思い通りの生き方ができるという平和ではなく、神さまが教えてくださる道。こんにち、そのみ教え、主のみことばは、教会において語られます。教会からみ教えが、教会から主のことばが出るのです。
教会は、さまざまな違いを持ちながら、神さまが語ってくださる道に、自ら進んで学び、その道筋を進んでいこうと志す者たちの集まりです。信仰を持った個人が集り、それぞれに違いがあっても、それはそれとして、教会が語る主のみことばに自らを従わせていく者たちの集まりです。こうして神さまの平和が前進します。みんな違って、みんないい。これがまことの平和です。この平和は、教会だけにとどまるものではなく、教会から始まり全世界に発信されていきます。教会は世界が平和であるための鍵を持っています。教会が主の御言葉を語るのは、世界の平和のためであるといってもよいのだと思います。
聖書はその大切な教会が、キリストの身体である、と語ります。身体ということはつまり、個々がばらばらに集められている集合ではないのです。たとえばデパートで1階から2階に行くために、エレベーターにたまたま乗り合わせた集団というのではありません。目的地は同じかもしれませんが、そこには「身体」的一致、というものがありません。キリストの身体という場合、そこには有機的な、身体的な一致が期待されているのです。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(第一コリント12・26)
この一体性は「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」(同22)という、それぞれの機能的有用性には一切かかわらず、むしろ人間的に見ればそのようなものを兼ね備えていないかに見える者こそ、なくてはならない、という信仰的な覚悟に基づきます。
このような信仰的共同体、あるいは集合人格概念的な共同体は、エレベーターに乗り合わせた者の間には生まれることはありません。ではどのように生まれるのか。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15・16)
教会に集った、ということの土台に、神さまの招きがある、ということを信じた者たちの間にこそ生まれることです。私がこの一地方教会に集うことになったのは、神さまの選び、神さまの招きがあったからだ、私が集いたいと思ったからでもなく、さまざまな事情がそうさせたというのでもなく、もちろんそれらは大切な要素でしたが、イエスさまが招いて下さり、イエスさまが選んでくださったのだ、という信仰的な覚悟が、その土台なのです。その信仰的な覚悟がないままでは、いつまでたってもエレベーターに集う烏合の衆です。
教会の集合人格概念的な共同体は、聖餐による一致によって生まれ育まれます(第一コリント11章)。楽しい交わり、さまざまな文化活動、愛さんによる交流も大切です。しかしそれらによって生まれる交わりは、この世のものと何ら変わりがありません。もちろん教会ならではの話題があるので、この世とは違うと言えば違うのかもしれません。しかし誤解を恐れずにいうならば、この世の交わりのほうがよほど気が利いていて楽しいということも実態としてはあるでしょう。それに対して、聖餐による一致、聖餐における交わりは、この世には決して存在しません。
交わりといった場合、神さまとの交わり、そして人と人との交わり、という二つの分類が成り立つと思いますが、どちらが大切であるのか。私は、そもそもこの二つを分けること自体に問題があると考えています。聖餐式のテーブル、聖餐卓は英語で、コミュニオンテーブル(交わりの机)と言います。聖餐式の式文の式辞には「この聖餐にあずかるとき、キリストは、私たちのうちに親しく臨んでおられます。またこの聖餐は、私たちが、主の愛のうちに一つであることをあらわすものです」と語られます。兄弟姉妹との交わりの時、そこに主が共におられるのです。主との深い交わりの時、その傍らに兄弟姉妹がともにいるのです。どちらも欠かすことのできないことであり、どちらかが欠けるならば、もう一方ももはや成り立ちません。
そのような有機的な信仰共同体こそ、主のみ教えが語られるところとなります。そして、「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう」という多くの民の集うところとなるのです。