もう戦うことを学ばない

静まりの時 ミカ4・1~3
日付:2023年08月09日(水)

1 その終わりの日、
 主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、
 もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。
 そこへもろもろの民が流れて来る。
2 多くの国々が来て言う。
 「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
 主はご自分の道を私たちに教えてくださる。
 私たちはその道筋を進もう。」
 それは、シオンからみおしえが、
 エルサレムから主のことばが出るからだ。
3 主は多くの民族の間をさばき、
 遠く離れた強い国々に判決を下す。
 彼らはその剣を鋤に、
 その槍を鎌に打ち直す。
 国は国に向かって剣を上げず、
 もう戦うことを学ばない。
(ミカ4・1~3)

 細かな文言に少し違いがありますが、月曜日に読んだイザヤ2章2~4節とほぼ同じです。イザヤ書2章は明日も読むことになります。

「もう戦うことを学ばない」。

 もしかすると、人間は生まれながらに戦うことを学び続けてきたのかもしれません。世話をされなければ生きることのできない赤子のころから、すでに泣くことを通して、自らの希望を訴え、自らの必要を主張し、それを勝ち取ることを、だれに教えられることもなくやるようになりました。そうでなければ生きられなかったからです。兄弟ができるといろいろと争奪戦も起こります。学齢期には、さまざまな面で他と比較されながら、どこか人を押しのけ、人よりも優(勝)る道を進もうとしました。社会に出ればなおさらです。
 そこでいわゆる「戦うこと」を学ぶように仕向けられ、自らもそれが良いことのようにして来たと思います。どの場面でも、負ける、という道は、人生そのものの負けであり、自分が生きていることの意味さえも見失ってしまうような事態です。
 人類の歴史も、いかに勝つか、ということによって文明は前進してきたところがあります。より多くの生産量を生み出すための科学技術も、勝つことを学ぶ技術でしょう。科学の前進がもたらしたさまざまな軍事力は、まさに勝利を目指すためでした。
 しかし果たして勝利とは何であるのか。

 人間は本来、戦うことを学ぶために神さまによって造られたのではありません。ですから戦いのことを学ぶという歴史は、もはや人間の本来の歴史とは言えないのだと思います。
 神さまを信じるという生き方は、神さまによって戦うことを学ぶことに、ストップ、をかけていただいたことです。日々戦う生き方から、平和と平安の中に生きるように招かれたのです。本来の人間の生き方に生きるようにと招かれたのです。それは、今まで戦いによって勝ち得たと思っていたことが、ことごとく神さまによって与えられたものであり、感謝すべきことであることを知るようになりました。

 たとえば食事の時に主にある者は祈ります。食卓に並んだ食べ物は、じっさいには、自らの働きによって手に入れたもの、いわば自分の手で勝ち取ったものです。しかしそれを感謝して祈るということはいったいどういうことでしょう。

『きょうを生きる祈り』の食前の祈りを引用してみたいと思います。

神さま
きょうの食事を感謝します。
あなたはむかし、荒野でご自分の民を養われたように
私を養っていてくださいます。

生きることに勇気を失った日がありました。
まわりの人がみんな、自分に反対している敵のように見え
家を出るのがおっくうな日がありました。
なにをしても意地わるい目で見られ
足もとには、ひそかなわなが仕掛けられているのではないかと
どうしても、一歩を踏み出すことができませんでした。

あるとき、気がつきました。
弱りはてて、動き出せない私の目の前に
食事が備えられていることに。
それをさし出しておられるあなたのみ手を私は見たのです。
「食べよ」と呼びかけ、「生きよ」と促していてくださいました。
そして「敵の中に、まっすぐに、踏み込んで行きなさい」と。
あの日からすべてが変わりました。
どんな日にも、私の目の前に食事が備えられていることに
慰めを知りました。

神さま
この糧を、感謝して、いただきます。

(『きょうを生きる祈り』、日本基督教団出版局、1995年、74頁f)

 食卓に並んだものは、確かに自分の手で勝ち取ったものかもしれません。しかしそれでも、それは神さまが与えてくださったもの、私の功績によるものではないことを告白し祈るのです。戦いのことを学ばない生き方が、食卓からも始まるのです。