静まりの時 エペソ6・10~20
日付:2023年07月08日(土)
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
(エペソ6・10~12)
信仰生活は、イエスさまを主と仰ぎ、イエスさまのみに礼拝を捧げて生きることです。私の王を私とするのではなく、イエスさまこそ私の王である、主人であるとして生きることです。そうして平安な、平和な人生を歩むことができます。
しかしそれは戦いの生活でもあります。平安、平和、と闘い、戦争というと、相反するもののようですが、平和を生きるために、戦いを経験する、というのです。
多くの戦いは、自分のうちに「大義」があって、その義を実現するために戦いとなってしまう、ということでしょう。戦う相手は、他者であり、自分の外になる力、勢力です。いわば自分が主となるための戦いです。
しかし信仰の戦いは、罪との戦いです。罪とは誰彼の罪、社会の罪、といった自分の外にあるものではなく、まさに自分の中に巣くうものです。そのような罪びとである私が、イエスさまを主とする、となると当然戦いが起こってきます。信仰生活が戦いである、ということは、そういうことです。
たしかに信仰に生きる者には平和が生まれます。信仰者は平安に生きることができるのです。しかし自分を中心として築こうとする平和では、本当の平安は生まれません。イエスさまを主とする、イエスさまを王とすることではじめて本当の平安は生まれるのです。本当に平安に生きるために信仰生活を送ろうと願うならば、必ず戦いを経験することになるのです。
イエスさまを私の主とし続けるために、自分の罪と闘う人は、まことの平安をいただくことができます。そうして共に生きる人たちと平和に生きることができます。共に生きる人と間に戦いが起こるのは、自分を主とすることに躍起になっていて、イエスさまを主とすることをしないからでしょう。
さてこのような自分の罪との戦いをパウロは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言いました。
罪人である自分が王となろうとするのは、この暗やみの世界の支配者たち、天上にいるもろもろの悪霊に対するものとの戦いに負けてしまっていることだ、というのでしょう。単なる個人的な問題ではなく、歴史を貫いて存在する「悪」との戦いに負けてしまっているのだ、というのです。創世記3章に始まる人間の罪の歴史。そのものに負けてしまっているのだ、というのです。
イエスさまはこの罪との戦いに十字架と復活の御業によって勝利してくださったのに、そのイエスさまを主としないから、負けてしまうのでしょう。
この戦いにどうすれば勝利し続けることができるのか。パウロは「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」と言いました。
つまり、戦いのためには武具を手にせよ、というのです。それは、素手では戦ってはいけない、自分の力で戦っても勝利することはない、神さまによって強められ、神さまのお力によって、戦わなければならない、というのでしょう。
信仰の戦い問うのは、つねに神さまのお力によって戦うことです。私の知恵、私の力、で戦うのではない、この世の知恵、力で戦うのではない、のです。そのためには、私というものが本来持っている力を捨てなければなりません。パウロは「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(第二コリント12・9~)と言いました。
明日は主の日です。礼拝の日です。礼拝を捧げる、ということは、自分の力をすべて神さまの前に手放すことです。そうして神さまの武具を手にすることです。イエスさまが主となっていただく戦いに、そして自分の中にある自己中心という罪との戦いに勝利するために、自分のすべてを神さまご自身に委ねること。それが礼拝を真実に献げるということです。