こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた

静まりの時 第一列王記6・11~14
日付:2023年07月10日(月)

 そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。
「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
 こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた。
(第一列王記6・11~14)

「こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた」。

 神殿。神さまのお住まいになる宮。それをソロモン王は建設しました。この建築工事は

「イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建築に取りかかった。」(6・1)

と書かれていて

「第四年のジブの月に、主の宮の礎を据え、第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。」(6・37,38)

と書かれています。実に7年の歳月をかけて完成された大工事であったことが分かります。
 しかし、すこし皮肉を言うとすれば、これに続く7章1節に

「また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。」(7・1)

 と書かれていて、ソロモンは、神殿の約2倍ほどの年月をかけて、自分の住む宮殿を建てていることも分かります。続く2節と6章2節を比較すると、大きさも二倍近くあります。

 さて、こうしてソロモンは神殿を建て、これを完成させた、のですが、どのように建て完成していったのか。6章にはその設計図というか、施工の行程が書かれています。しかし建て上げられているさなかに、神さまから聞こえてきた御声は、

「もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」(12,13)

であったと聖書は語ります。ソロモンよ、あなたは一所懸命神殿を建ててはいるが、それよりも、あなたがわたしの御心に歩むかどうかが大切なのだよ。わたしの御心に歩むならば、あなたを祝福し、わたしはイスラエルとともにいるのだ、と言われたのです。箱モノも大切かもしれないが、もっとも大切なのは、神さまの御心に歩むかどうかである、と。聞きようによれば、いくら立派な神殿を建てても、神さまの御心に歩まないならば、意味はありませんよ、と言われているようです。

 この神さまからの御声が聞こえてきた後に、「こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた」との言葉が続きますので、この神さまの御声をいただいて、はじめて完成した、ということが強調されているのかもしれません。

 教会では、会堂建設が完了すると、献堂式をします。多くの宗教施設も完成したあかつきには、除幕式、落慶法要、などなど式典が行われ祝賀会が開かれるものでしょう。そのようなものと、キリスト教会の献堂式とはどのように同じで、どのように違いがあるのでしょうか。
 お祝いするという点では同じであると思います。そのほか祝賀会なども同じかもしれません。しかし決定的に違うのは、完成した時に、ソロモンが神殿完成の時に祈った祈りを祈るということではないか、実際にこの祈りを祈ることがなかったとしても、そのような心構えを確認するということではないか、と思います。

「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(第一列王記8・27)

 つまり神さまがお住まいになるための神殿を建てたけれども、ここには神さまはお住まいにはなりません、神さまがともにいてくださることは、私たちが神さまの御心に歩むかどうかにかかっています、と祈るのです。せっかく苦労して建てたけれどもここには住まわれない、と祈るというのは、何とも奇妙なことですが、それがキリスト教会のあり方なのだと思います。
 神殿の完成は、自分たちの信仰のあり方による、というのです。いくら立派な建物ができても、神さまの御心に歩まないならば、いまだ未完成である、というのです。

 イエスさまは、エルサレムに入城さると、神殿で売り買いしている者たちを追い出されました。両替人の台をひっくり返し、鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。いわゆる宮きよめを行われました。そして「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と旧約聖書のことば引用して語られました。当時の神殿が祈りの家となっていなかった、ということでしょう。ヘロデの建てた神殿は、建てるのに46年かかった(ヨハネ2・20)というのですから、それはそれは立派な神殿だったようです。しかし祈りの家となっていない、すなわち、まだ完成していない、と言われたのでしょう。そして次の言葉は公生涯の最初に行われた宮きよめのときに語られたものですが、

「イエスは彼らに答えられた。『この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。』」(ヨハネ2・19)

と言われました。そのお言葉通り、十字架に架かられた主は三日目に復活され、祈りの家としてのまことの神殿を建ててくださったのだと思います。

「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(第一コリント3・16)

 祈りの家としてのまことの神殿とは、私たち一人ひとりである、と聖書は語ります。ご聖霊さまが住んでいてくださるお互いこそ、神殿なのだ、と言われたのです。

 神殿である私たちが、その完成に生きるのは、ここでも、神さまの御心に生きる、ということでしょう。御心に生きて、私という神殿は完成するのです。お互い、いまだ途上にあります。しかし、神殿完成の日を望みながら主の御心に生きる今日一日なのです。