それは私たちの義となるのである

静まりの時 申命記6・16~25
日付:2023年07月07日(金)

16 あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。
17 あなたがたの神である主の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。
18 主の目にかなう良いことをしなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、主があなたの父祖たちに誓われた、あの良い地を所有することができる。
19 主が告げられたように、敵をことごとくあなたの前から追い払うことができる。
20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神である主が命じられた、このさとしと掟と定めはどういうことですか」と言うなら、
21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって私たちをエジプトから導き出された。
22 主は私たちの目の前で、エジプトに対し、ファラオとその全家族に対して、大きくて害をもたらすしるしと不思議を行い、
23 私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。
24 それで主は、私たちがこのすべての掟を行い、自分たちの神である主を恐れるように命じられたのである。今日のように、いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである。
25 私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」
(申命記6・16~25)

 「それは私たちの義となる」。義とは正しいという意味ですが、倫理道徳としての正しさ、というのではなく、神さまとの関係の正しさ、を言います。神さまとの関係の正しさの中に生きるならば、おのずと私たちの生き方は倫理道徳的にも正しく生きることができる、ということかもしれません。
 そもそも私たちは何が正しいのかを知らないのです。世界のすべてを見渡すことができず、将来を知ることもできないのですから、私たちが正しいと思ったことも、もしかしたら正しくないかもしれない。正しいと思っての行動が、のちの時代に間違っていたと評価されるかもしれない。正しいと思っての行動が、共に生きる人にとってはとても困ったことを生み出すかもしれないのです。そういう限界のある私であるのに、これが正しいことです、と言い切るとすれば、滑稽なことです。
 ですからまことに正しいお方である神さまを知ったならば、自分の正しさを行使するときは少し控えめにするのが人間として健やかに生きる道でしょう。

 イスラエルはエジプトのファラオの奴隷であったのを、神さまによって解放されました。そうして自分たちが建てたのではない町に住み、努力して得たのでもない多くの恵みに生かされるようになりました。そこで神さまを忘れないために、律法が与えられ、この言葉を行うならば、神さまが築いてくださった義に生き続けることができる、と約束してくださったのです。律法は、かつてエデンの園で与えられた、園の中央の木、のようでした。
 私たちが律法守るので義とされる、というのではありません。神さまの一方的な恵みによって導き入れてくださった義に生き続ける、そのことを感謝し続ける、忘れないために、律法を与えてくださったのです。律法に生きる道を神さまご自身が備えてくださったのです。ですから私たちが律法を守ることができたからと言って私たちにはなにも誇ることができません。ただできるのは、そのように導いてくださった神さまに感謝すること。そして喜ぶことです。

 この25節は共同訳では新改訳と同じように訳されていますが、新共同訳では次のように訳されています。

「我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」(新共同訳、申命記6・25)

 義とされる、というところが、報いを受ける、と訳されています。ですから、どうしても私が律法を守るという「行い」が、それを行った私に「報い」をもたらす、と理解することになり、いわゆる律法主義を生み出すことになるのです。しかし、聖書の全体を読むと、奴隷から解放し約束の地に導き入れてくださり、その約束の地のすべてを準備してくださったのは、神さまです。ですから、律法を守ろうとすることは、神さまの一方的な恵みに対しての感謝のあらわれです。そこでの報いとは、そのように感謝することができるようにしてくださった、という喜びではないか、と思います。

 神さまとの豊かな関係の中に導き入れられた、ということが、感謝と喜びをもって律法に生きるということを生み出し、そのこと自体が、人生を祝福に導くというのでしょう。
 御言葉に生きる、ということは、ある人にとっては不自由に生きると理解されるかもしれません。しかし暗やみの中を自由に歩きなさい、と言われると、途端に不自由になってしまうのと同じように、先を見ることのできない私たちにとってはいわゆる自由こそ不自由なのです。しっかりと手を握ってくださり、これが道だ、これに歩め、と語ってくださる神さまのおことばを頼りに生きることこそ、まことの自由に生きることなのです。