静まりの時 ローマ16・17~20
日付:2023年07月06日(木)
兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。
平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。
どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
(ローマ16・17~20)
ローマの手紙は16章で終わります。その手紙の最後に挨拶が続いています。3節からは、よろしく、という言葉が続きます。23節まで続いています。名前を挙げて、その一人ひとりに挨拶を送っていると、どうしても言っておかなければならないことを思い出したのでしょう。これだけは言っておかなければならない、と思い立ったのでしょう。突然に「兄弟たち」と語り掛けます。分裂とつまづきをもたらす者たちを警戒せよ、と語りました。
教会に分裂をもたらそうとするものがいる、そういう者たちを警戒せよ、と勧めるのです。新約聖書に登場する初代の教会には、それぞれに手紙を書き送られなければならないテーマ、あるいは問題がありました。コリントの教会は、私はペテロにつく、アポロにつく、といったふうに、徒党が組まれて勢力争いが起こっていたといいます。ガラテヤの教会は、福音から離れて律法主義に進んでしまいました。ローマの教会は比較的信仰にまっすぐに生きていたようです(1・8~)。しかしそれでも手紙が書かれなければならない問題が見え隠れしていた、ということも事実でしょう。その一つが分裂の問題であったのかもしれません。信仰のいわゆる熱心さが分裂を生み出しそうになっていた、あるいはすでに分裂していたのかもしれません。互いに正義を主張し、自分の考えと違う者を非難するということが起こっていたのかもしれません。
どうして分裂が起こるのか。パウロは「あなたがたの学んだ教えに背いて」といいます。分裂は単なる人間関係の問題ではなく、信仰の問題だ、というのです。学んだ教え、すなわち主イエスさまの十字架と復活の教えに背いているので、分裂が起こるのだ、というのです。主イエスさまの十字架と復活の教えに背く、ということは、神さまの恵みを忘れてしまう、ということです。自分の救いが、神さまの一方的な恵みによるものである、ということが分からなくなってしまっている、ということなのです。ことは重大です。
主イエスさまの十字架と復活の教えに背くというのは、結局、「私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えている」のだ、といいます。自分の欲望。別の訳では、自分の腹、と訳されています。
主イエスさまの十字架と復活の信仰に生きる、ということは、主イエスさまを主とする生き方です。それまでは自分が主でした。つまり自分の欲望、自分の腹、自分の願望に生きていたのです。そのような自己中心の生き方から、180度変えられて、神さまを中心とした生き方に変えられた、それが救われたということです。
ところが、相変わらず、自分を中心としている人が教会にいる。自分の欲望や願望の実現のために教会生活を送ろうとしている人がいる。そういう人が教会に分裂をもたらすのだ、とパウロはいうのです。誰彼のことをいうのではありません。自分の中に、そのような自分の欲望に仕える心がないだろうかと、吟味しなければならない、いくら良いことに見えても、そこに自分の願望を満たそうという心がないだろうか、もしかしたら自分が教会分裂をもたらす者になってはいないだろうか、と振り返っていなければならない、そういうことです。教会分裂をもたらす者となっているとするならば、もはや信仰に生きているとは言えない、とパウロは言うのだと思います。信仰に生きているとは言えない、ということは、そこには救いがないともいえるのかもしれません。
「彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましている」とパウロは語りました。自分の欲望の実現のためには、人間はいくらでも滑らかなことば、へつらいの言葉を語ることができてしまう。それはテレビショッピングや訪問販売、さまざまな営業活動を見るまでもなく明らかです。特殊詐欺がこれだけ警戒されているにもかかわらず減少しないのは、だまされるほうの問題ではなく、だますほうが巧妙なのです。自分の欲望に仕える人たちの巧妙さに、純朴な人、善に生きようとする人ほどだまされてしまいます。
パウロは、善にはさとく、悪にはうとくありなさい、といいます。悪にうとい、ということは、悪に対して無警戒、無頓着であれ、ということではありません。警戒しなさい、遠ざかりなさい、とも勧めていますから、悪に親しんではならない、ということです。
遠ざかる、ということは、距離を置きなさい、ということです。自分の腹に仕えていることが人生のテーマになっている、信仰をもってなおそのような生き方が変わっていない。あるいは信仰を持つことそのものが、自分の願望の実現の道具になってしまっている。そういう人を、本当は変えてあげなければならない。信仰の力がその人を、自己中心から神さま中心に変えてあげなければならないのだと思います。しかしそれは人間にはできないことです。それができるのは、神さまだけです。そしてその神さまのお心を、自分の腹よりも大切にしようと決意する、その人自身だけができることなのです。
その人しかできない。その人だけが自分を変える鍵を持っている。にもかかわらず、他人である者が、その人を変えてあげようとして近づいてしまうならば、せっかくその人がカギを使って自分を変えようとする道を阻んでしまうことになる。周りの者ができる最大かつ大切なことは、遠ざかること、なのです。ですから遠ざかることは、決して消極的なことでも、愛のないことでもありません。一番確かなお方である神さまに委ねることです。神さまに委ねることこそ、その人を愛するもっとも大いなる道なのです。