静まりの時 第一テモテ2・4~7
日付:2023年05月24日(水)
4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
7 その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。
(第一テモテ2・4~7)
若い伝道者テモテに書き送られたパウロの手紙。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる。神は唯一である。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリストである。このキリストはすべての人の代価として、ご自分を与えて下さった、この降誕、生涯、十字架、葬り、復活、昇天の御業は、ことごとく定められたときになされた証し、神さまが確かに生きておられる、私たちを愛しておられることの証しである、とパウロは語りました。
これらのことをテモテは知らなかったはずはありません。伝道者ですから。しかしあらためて語られている、ということは、あらためて語られなければならない事情があった、ということでしょう。あるいはそのような事情が無くとも人間は、いつもこの真実の神さまの愛を語っていただかなければならない、ということかもしれません。
礼拝では、いつもキリストの十字架と復活が語られます。毎回語られます。礼拝に集う多くの人たちにとっては、すでに知識としては知っていることでしょう。しかしそれが語られ、そしてそれが聞かれる、ということが繰り返されているのです。
愛の言葉というのは、繰り返し語られなければならないものなのかもしれません。
人間同士もそうです。愛しているということが了解されている間において、愛している、という言葉が繰り返し語られていく。あるいは言葉だけでなく、愛している、というメッセージが届けられていく。それが、真実の愛、というものの性質かもしれません。
真実の愛は不滅であり永遠なのですが、愛の言葉はいわば生ものなのです。賞味期限がすぐに過ぎてしまう。愛そのものは不滅であり永遠なのですが、愛の言葉は、いつも鮮度が保たれている中で届けられるものなのでしょう。
「その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました」。
私、すなわちパウロが宣教者、使徒、そして信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されたのは、この証しのためである、といいます。自分がいま生きている、生かされていることの使命を確かにしています。宣教者、使徒、教師に召されたのは、この「証し」のためである、すなわち、神さまの愛を伝えるためである、というのでしょう。
牧師、伝道師に限らず、自らが生かされているのは、神さまの愛を証しするためである、と確認するのです。これはパウロ自身が確認しているのですが、それがテモテに書き送られているのですから、パウロとしては、テモテよ、私たちはひたすら神さまの愛を証しするために牧師として召されたのだよ、おおよそキリスト者はこの証しのために教会生活を送っているのだよ、と語っている、確認しているのだと思います。
上手な牧会ができなくてもよい、説教がうまく語れなくてもよい、愛の業に足りなさがあってもよい、いろいろな失敗があってもよい。私たちは、ひたすら神さまの愛の証しのために生かされているのだ、そのことを忘れないようにしよう、と。
それは、つまるところ自分たちがどれだけ神さまに愛されているのかを証しするということに終始するのではないか、と思います。美味しい料理を、本当に美味しいぞ、と証しするとすれば、とにかくなすべきことは、自分自身がその料理を食し味わい喜んでいなければなりません。
神さまに愛されていることを、日々味わい喜んで生きている、ということが何よりの証しなのです。
「私は真実を言っていて、偽ってはいません」。
どうしてこのような、念を押すようなこと、を語っているのでしょう。
私たちが、これは真実です、ウソではありません、本当ですよ、とわざわざ言わなければならないのは、自分の語った言葉の真実性にどこか不安を持っているときが多いのではないかと思います。しかし、パウロが自分のことばに自信がなかったからではないと思います。
4節の「真理」と、この7節の「真実」はともに「アレテイア」というギリシャ語で同じ言葉です。真理はいつもアレテイア(荒れていや~)と神学校では覚えました(笑)。すべての人が真理を認識することを望んでおられる、私の語る言葉は、真実である、とは、キリスト者は、みな真理・真実を認識し、真理・真実を語る者となる、ということではないかと思います。
キリスト者はみな漏れることなく、真理・真実を認識し語る者である、というとかなり大胆な言い方だと思いますが、しかし、私たちはいつも祈りの時や賛美の時の最後に「アーメン」と唱和します。「アーメン」も、ヘブル語の真実、真理、という意味の言葉です。それは今祈られた祈りに、あるいは賛美に、心から同意します、真実であることに同意します、というような意味だと思います。だれか一人が祈っていたとしても、会衆がアーメンと唱和することによって、会衆全員の祈りとしてささげられている、ということが確認されているのだと思います。
しかし、誰かが祈っていて、それを聞きながら、それは確かに私も同意する、真実だと思う、という説明は、いささか傲慢な感じがするのですが、いかがでしょう。
ハイデルベルク信仰問答のなかに、主の祈りについての問答があります。
〔問129〕 「アーメン」とは何を意味するのですか。
〔答〕 アーメンとはすなわち、「それはまことに確かです」ということです。なぜなら私の祈りは、私がこれらすべてを神に求めていると自分の心に感じるよりもずっと確かに、神によって聞かれているからです。
この問答に関して、『ハイデルベルク信仰問答との対話』(G.プラスガー、芳賀力訳)は以下のように記しています。
「イエスは弟子たちを自分自身の祈りの中へと招き入れ、そのことで、神が聞いてくださるという確かさの中にも入れることによって、弟子たちに祈ることを教える。祈りが効き届けられるかどうかと、祈る者が疑いを抱くことは珍しくはない。自分の願ったことが実現しないからでもあり、祈る者が、自分の信仰が十分に強いとは言えないと判断する場合もあるからである。ハイデルベルク信仰問答は両方の場合を念頭に入れている。というのは、祈りが聞かれることの決定的に重要な点は、願いが実現されたという経験ではないからである。また自分の祈りの生活の内面性がすべてを決定するというわけでもない。聞き届けの確かさは人間の内面性において作り出されるものではないことを問答書は明らかにしている。もし内面性が決定的であれば、信仰の質を聞き届けの決定的な要素とする「信心深さの圧力」[信心深いかどうかを尺度とすること]になるだろう。問答書はそうではないと言う。神は私たちの祈りを聞いてくださる。おそらくただ私たちが期待し希望するのとは別の仕方で、聞いてくださるのである」
(G.プラスガー、『ハイデルベルク信仰問答との対話』、芳賀力訳、教文館、2019年、275頁)。
これによると、祈りや賛美、信仰告白などの最後に、アーメンと唱和するのは、それが真実である、私も同意する、などと言っていることではなく、神さまが真実です、と告白しているということです。そしてそれを個人的に告白しているのではなく、会衆みんなで告白している、ということなのです。
私たちはどこまでも不真実ですが、神さま、あなたはどこまでもご真実なお方です、どうかこの祈りを私たちの真実さによるのではなく、ひたすらあなたのご真実によってお聞き届けください。あなたがご真実なお方ですから、どんなに私たちのなかに不信仰があり、不真実があったとしても、この祈りをあなたは限りない愛をもってお聞きくださっています、とアーメンと唱和するたびに感謝しているのです。ですから、アーメンというのです。
パウロは、どんな自分が不真実なものであるのかを知っています。罪びとの頭である(第一テモテ1・15)と告白するのですから。ですから、パウロが「私は真実を言っていて、偽ってはいません」と語るのも、私の語る言葉の真実性は、神さまにかかっています、と告白していると、そんな感じにも聞こえてきます。
牧師室のエアコンの暖房が聞かなくなりすでに数年が経過しました。二度ほど修理に来てもらったのですが改善されませんでしたが、暖房ですからストーブで十分間に合ってきました。先日の役員会でもそことを心配してくださいましたが、クーラーはよく効いているので私には十分です、と答えてその時は終わりました。が、先週に暑い日が続いたとき、今年初めてクーラーをつけようとしたら、ずーと点滅が繰り返されるばかりで一向に涼しい風が吹いてきません(笑)。その日はかなり暑い日で、少し熱中症的になったのか、寒暖の差が大きかったのか、暑熱順化ができていないからか、夜少ししんどくなってしまいました。ということで、エアコンを新調することにしました。業者の方いわく、ガス漏れですね、設置から17年ですか、よく使ってこられましたね、などと言われてしまいました。実家などはもう30年以上も使っているエアコンがありますが・・・。
昨日は室内自転車をしながら映画『LION/ライオン~25年目のただいま~』をようやく見終わりました。BSプレミアムで放映されたのを録画したものです。室内自転車は30分と決まっていて、その間観ることになるので、30分なのです。それで数回に分けて観ることになります。どんな話か知らずに観たのですが、最後は涙なくしては見られませんでした。20年ほど前に旅をしたカルカッタ(コルカタ)の風景も複雑に心にしみたのかもしれません。エンディングロールで流れてい来る、Siaの「Never Give Up」、がまた心を打ちました。