今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました

静まりの時 コロサイ1・21~23
日付:2023年05月23日(火)

21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。
(コロサイ1・21~23)

 「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありました」(21)。この「あなたがた」とは、コロサイの信徒のことですが、それはどのような人たちであったのか。この手紙を書き送られなければならなかった「あなたがた」にはどのような信仰的な問題があったのか。

「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。」(コロサイ2・20,21)

 かつては神さまから離れ、神さまのとの間に敵意があり、悪い行いの中にあったが、今救われて新しく生きる者にしていただいた。にもかかわらず、つかむな、味わうな、さわるな、といった定めに縛られるのか。つかむな、味わうな、さわるな、といった定めに縛られる生き方は、「かつて」の生き方と同じではないか。
 「悪い行いの中にあった」。極悪非道の人生を送っていたということではなく、行いにおいてはむしろ定めにしっかりと生きているかのような生き方であった、しかしそれは結局神さまとの間に敵意があって、その敵意に突き動かされての生き方であった。今はそういう生き方から解放されたのではなかったか、というのでしょう。

「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました」(22)。

 神さまがこの私と「和解させてくださいました」。神さまは、ご自身の一方的な愛によって私たちとの間にあった敵意を解消してくださいました。和解させてくださったのです。今は、神さまが味方となって歩んでくださるのです。

「ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」(23)。

 神さまとの和解をいただいた私たちは、その恵み、平安を、自動的に頂くことができるのか、というと、聖書は、自動的に頂くことではなく、この信仰に土台を据えなければならない、堅く立たなければならない、聞いている福音の望み、希望から外れることなく、信仰にとどまらなければならない、と語ります。堅く立つ、外れない、とどまる、ということが必要である、というのです。
 完璧な料理が出されてもそれを実際に食さない限り味わうことはできません。イエスさまが私のことを愛していてくださる、といくら説明されても、それを実際に味わうことがなければあまり意味がありません。日々のデボーションにおいて、主の日の礼拝において、神さまの愛を学ぶことが必要です。また日々生かされている中で起こる様々な出来事の中にあって、信仰を土台に据え、堅く立つこと、信仰にとどまることが大切なことなのです。
 それはすべてのことの中に、イエスさまの愛の御手があることを信じる、信仰を持つということにおいて実現します。

 私たちは「今の時」に生きることがなかなかできません。たいてい過去が未来に生きてしまっています。過去のことを思い起こしてはくよくよしたり、逆に過去の栄光にしがみついていたりいます。あるいは、明日はどうなるだろう、このままいけばこの先は一体何が起こるだろう、と未来を勝手に想像して不安になったり、逆に変なバイアスのかかった未来を思い描き、地に足の着いた生き方からほど遠いような生き方になってしまいます。「今の時」はせいぜい未来のための準備期間であったり、過去の抜け殻であったりしてしまい、ただ過ぎ去るだけの時間となってしまいます。
 それに対して、信仰を土台に据えて生きる、信仰から外れない、信仰にとどまる、ということは、過去のことも未来のことも神さまにゆだねる信仰に生きる、ということです。それは「今の時」に生きることを私たちに可能にします。

 過去の記憶。暗い記憶であるか栄光に輝く記憶であるか、いずれにせよ、それは過ぎ去ったことです。神さまの御手の中にあることです。どうすることもできないことに縛られることからは自由にされること。
 未来への想像。何か良いことを思い描くこと、ビジョンを持つことは大切なことかもしれません。しかしそれが今を生きることを希薄にしてしまうならば、生きるということそのものを希薄にしてしまうでしょう。逆に明日の心配ばかりしていては、今を生きることはできません。明日のことは明日が心配するのですから、よい意味でも悪い意味でも未来のことからは解放されていましょう。未来のことから解放されて今を生きる者にして頂いた者には、未来は、未だ来らんとしているもの、というだけでなく、将に来たらんとするもの、将来となるのです。

 過去から解放され、将来に希望をもって生きること。そのために「今の時」を生きること。それは今の時に「心を込める」ことによって生まれます。心を込める、といっても精神を集中するという能動的なことだけではなく、ありのままを受け止める、そのままを見つめていく、ということです。過去のことや未来のことに結び付けるのでもなく、今出会っていること、向き合っていること、それが喜ばしいことであるか、困った問題であるかはともかく、それをあるがままに見つめていく。眺めていくというほうがよいかもしれません。
 そうしてそれを信仰の目をもって、つまりイエスさまのお心を思い描きながら見つめていく。神さまとの間の敵意が取り除かれ、神さまが味方なのですから、そこにイエスさまの良いお心があるはずです。それを発見していく。すべてにおいて信仰を土台として見つめていくとはそういうことでしょう。そうしてイエスさまの良いお心が満ちている「今の時」を味わっていく。そんな人生は輝いているのではないでしょうか。

「イエスはあなたをご自分の見習いの一人になるようにと招いておられます。それはあなたの強さとは技術のゆえではなく、イエスが考えられたように考え、イエスがなさったことをするように学ぶことを通して、あなたが驚くような人生を送ることができるとイエスはご存じだからです」。
(ジェームズ・ブライアン・スミス、『エクササイズー生活の中で神を知るー』、松本雅弘訳、いのちのことば者、2016年、45頁)

 昨日は団体のひとつの教会で行われた葬儀に参列してきました。天国への希望が確かにされるときであり、またイエスさまを信じる者の幸いを学ぶ時でした。悲しみの時ではありましたが、幸いなときでした。人間はやはり生きて来たように死んでいくのですね。式中正座をすることになったのですが、最後の頌栄の時に立ち上がるのに少し苦慮していると、隣に座った親しい兄弟が、冗談交じりにしびれた足をつついてくださいました。やれやれ。