静まりの時 ガラテヤ1・11~17
日付:2023年05月22日(月)
11 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
12 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。
(ガラテヤ1・11~17)
「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」。
人間から受けたのでも教えられたのではない。ただひたすらイエスさまの啓示によって受けたものである。かつては人一倍熱心なユダヤ教徒であったが、いまこうしてイエスさまを信じる者とされたのは、人間のなにかによることではない、と語ります。
これは、ひとりよがりで独創的な信仰を語っていると主張しているのではありません。第一コリント15章でパウロは次のように語っています。
「1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、・・・」(第一コリント15・1~3)
この福音は、私も受けたことである、といっているのです。
それでは、ガラテヤ1章で、人間によるものではない、と語っているのはいったいどういうことでしょう。
教会で語られる説教、皆で朗読する聖書、日々触れる聖書の言葉、それらは、すべて人間の手から私に伝達されたものです。説教は牧師が語っています。朗読する聖書の個所は牧師が、あるいは教会が決めています。日々デボーションなどで読む個所も、自分が気に入ったところを読むというよりも、何かによって決められたところをたまたま読んでいることが多いでしょう。しかしそういうこともすべてイエスさまがお語り下さっているのだ、という信仰を持っている、ということだと思います。
そもそも聖書自体も、私が翻訳したわけではありません。信仰があるかないかはともかくその道の専門家が何十人も集まって長い時間をかけて翻訳したものを、私たちは読んでいます。その方々の恩恵にあずかっている、といっても良いと思います。
人間によるものがなければ、信仰生活自体が成り立たないといってもよいのではないか、と思います。
しかしそれらもすべてひっくるめて、その中にイエスさまお心がある。イエスさまご自身がお語り下さり、なしていてくださる、ということを信じている、ということです。
そもそもこういう信仰がなければ、礼拝自体も成り立ちません。もしそういう信仰がなければ、説教は講演会となり、賛美は音楽会となり、沈黙はリラクゼーションになってしまいます。教会に集うこと自体が、文化サークルや何かのサロンに集うことになってしまうのです。すべてが人間によるものになってしまえば、救いはどこにもありません。
ガリラヤの手紙が書かれた背景には、パウロに対する反感めいたものがあったと言われます。パウロはイエスさまの12人の弟子ではありませんでした。むしろ迫害者でした。それが手のひらを返したように、イエスさまの弟子だといって宣教している、そんな人間を信じることができるか、パウロの語ることは信じられない、というような事だったと思います。
ですからガラテヤの冒頭では、ひたすら、人間によるものではなく自分はイエスさまに召された者なのだ、ということを強調しているのです。
牧師としては説教で語ることは、毎回チャレンジなのです。人間によるものであると考えたとたんに、さまざまな誘惑と自己嫌悪が襲ってきます。しかしのうのうと(笑)語っているのは、ただイエスさまがそうしなさい、といっておられるからだけなのですね。
昨日は、連れてこられた子どもたちを、天の御国はこのような者たちのものである、と言って下さり祝福してくださったイエスさまの愛を学びました。連れて来られただけのものであるにも関わらずイエスさまは、祝福してくださった、と学んだのですが、しかしよく考えてみると、連れて来られる、ということは、消極的なことではなく、それ自体積極的なことではないだろうか、むしろ大きな信仰なのではないだろうか、とも思いました。
連れてこようとしても、頑として連れてこられることをよしとしない人はいます。昨日の聖書個所では、子どもだったから連れてこられるしかなかった、ということかもしれません。しかし子どもでなくても、連れてこられるしかなかった、という状況は起こります。
連れて行ってほしいけれども、行くことができない、ということもあります。多くの人たちの助けによって、ようやく行くことができる、あるいは物理的に行くことが不可能でも、現代の機器が駆使されて、あたかもその場にともにいるようなことも可能となりました。
昨日の礼拝には久しぶりの方々もお見えになりました。いずれも、連れてこられた人(笑)でした。もちろん本人の熱い希望によって連れて来られたことではありますが。
連れて来ていただいてはじめて参加できること。それは大なり小なりすべての人に当てはまるのではないか、と思います。
そのすべての中にイエスさまの暖かな配慮と愛がある。あるいはイエスさまの愛に突き動かされた人たちの努力がある。祈りがある。そのおかげで、私もイエスさまの愛の輪の中に生かしていただける。なんと幸いなことであるのか、と思います。
今日の一日のひと時ひと時も、「人間によるものではない」(11)との信仰を確かにさせていただき、その時々を深くあじわうように過ごしてみたいと思います。
昨日は午後に、女性会のオープンハウスがありました。昼には、少しでも参加しやすいようにと、カレーライスの準備をしてくださいました。これが美味しすぎて、お代わりを我慢するのに苦慮しました(笑)。
女性会の交わりなので、子ども以外は男性は参加できませんが、運転手を仰せつかりました。運転は行き帰りだけですから、途中の時間は待ち時間です。おかげで、図書館でゆっくりとした時間を過ごすことができました。まず1時間ばかり昼寝をしました。図書館のソファーに腰かけて眠ることができるだろうか、とも少し思いましたが、しっかり眠ってしまいました。そういえば高校の時、授業が睡眠タイムであったことを思い出しました。世界史の先生などは、よく「田中、寝たらあかん」とやさしく諭してくださいました。その声がやさしいので、しっかり眠ってしまっていました。なんとう生徒でしょう。多くの先生たちの忍耐の上に今があるのだと感謝します。
睡眠のあとは、図書館をうろうろとして過ごしましたが、普段行かない図書館はなかなか面白いものですね。コンピュータと心筋梗塞と美術書のコーナーでタイムリミットとなりました。あたりを見ると、私とよく似たような人が幾人もいました。