静まりの時 ローマ6・11~14
日付:2023年05月20日(土)
11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
(ローマ6・11~14)
イエスさまを信じて新しく生きる者となりました。それは罪に対して死んだ者となった、ということです。罪に対して死んだということは、罪が私を支配することはない、罪はもはや何の力も行使できない、ということです。
しかしそれは罪を犯しても、何の影響もないということで、罪を犯してもへっちゃらである、あるいは、恵みが増し加わるためにますます罪にとどまろう(6・1)ということになるのか、といえば、そうではない、とパウロは語ります。
罪に死んだ者は、神に対して生きている者である、というのです。罪に死んだけれども、まだ神に対しては生きていない、ということはないのです。二つに一つです。イエスさまを信じた者は、すべて神に対して生きている者、生かされている者です。
ですから、欲望に従ってはいけません。不義の道具として自分の手足を罪に献げてはいけません。むしろ自分自身を神さまに献げる者とならなければなりません。
自分自身を神に献げる者となる、ということは、律法主義的にそうしなければならないというのではありません。主イエスさまを信じて生きる者は、恵みの下にあります。ですから自分自身を神さまに献げたい、それが私の生きがいである、という風に変えられている、ということなのです。
献げるということは、もはや私の手の中にはない、ということでしょう。私のコントロールの中から手放したということでしょう。献げたと言いつつ、それがどのように使われるかが気になって仕方がない、自分の思い通りに使われるかどうかが気になって仕方がないということは、本当に献げたことにはならないのです。それは結果的に献げたものによって他者をコントロールすることになってしまいます。結果的に神さまをコントロールすることまで人間はしてしまうでしょう。
自分自身をすっかり義の道具として神さまに献げること。これは全き恵みの中に生きることです。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる(ガラテヤ2・20)という喜びに生かされることです。なんと幸いなことかと思います。
先日あさイチに出演されていた熊野宏昭という方が書かれた『ストレスに負けない生活』(ちくま新書、2007年)を読んだのですが、その中でストレスは、怒りと欲から生まれる、というような文章に出会いました。怒りや欲望から全く自由になることは不可能だと思いますが、神さまに献げて生きるということは、自らを破壊するような怒りや欲望からは、解放されていることなのだと思います。
献げるということは、委ねる、ということとつながっているのだと思います。
今日は備えの日。明日は主の日です。良い備えの一日を送りたいと思います。午前は本部の畑で芋の苗植えが行われる予定です。雨も上がって予定通り行われるようです。午後に予定されていた団体の牧羊会セミナーは延期となりました。