私はその罪人のかしらです

静まりの時 第一テモテ1・12~17
日付:2023年05月19日(金)

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(第一テモテ1・15)

 この「かしら」と訳されている言葉は、新共同訳では「最たる者」、共同訳2018では、新改訳と同じ「頭(かしら)」、フランシスコ会訳では「罪びとの中の罪びと」とそれぞれ訳されています。
 同じパウロの書いたローマ人への手紙では、人間はすべて罪びとである、と語っているので、パウロは、自分は人類のなかで一番の罪びとである、と語っていることになります。
 現在世界には70億を超える人がいると言われますが、その中で自分は一番の罪びとである、ということでしょう。あるいは長い歴史の中に生きた人類の中で、一番の罪びとである、ということでしょう。さらには今後生まれてくる人類の中でも私が一番の罪びとである、ということも言えるでしょう。パウロはそう語ったのだと思います。
 それはパウロが一番といっているのだから、他の人びとは一番ではない、ということではありません。すべての人が、自分は罪びとの頭である、と告白することなのだと思います。キリスト教信仰に生きるということは、この、自分は罪びとの頭である、ということを告白することによって成り立っているのです。

 今朝の個所には、聖書によっては「神の憐れみに対する感謝」「キリストのあわれみ」という表題がついています。神さまのあわれみを知る、神さまのあわれみに感謝する、という信仰生活は、この、自分は罪びとの頭である、という告白によって生まれる、ということなのだと思います。

 「自分は罪びとの頭である」という信仰の告白は、自己卑下や自己否定、自己憐憫による言葉ではありません。罪びとの頭である私を、神さまは受け入れてくださった、愛してくださった、という喜びの言葉なのです。ですからこの喜び大きさは、自分の罪深さ、あるいは自分の罪深さへの認識の大きさと正比例します。自分はまんざらではない、少なくともあの人よりはましだ、などといっているうちは、この喜びはいまいちです。しかしパウロは自分が如何にとんでもない者であるのかを、公私ともに明らかにしていました。そうするしかなかったのです。ですからパウロの喜びは揺るぐことがありません。そしてそれは私たちすべてにも当てはまることなのです。

 「あんたはほんとにとんでもない人やな~」「愛想尽かすわ~」と言われるごとに、「ごもっとも」「よく言い当てましたね」「さすが~」と答えつつ、そういう罪びとの最たるものを神さまは赦し受け入れ愛していてくださるのです、この世界のだれもが私を受け入れなくとも、天と地を造られたお方が私を受け入れてくださったのです、ハレルヤー、と答えることができるのですね。イエスさまを信じる者にしていただいて本当に良かったなと思います。

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「さつき」なのか「つつじ」なのか、はっきりさせていただきたいところですが、こういう種類の木があるということですね。