文字は殺し、御霊は生かす

静まりの時 第二コリント3・4~6
日付:2023年05月17日(水)

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
(第二コリント3・6)

 「文字は殺し」。この「文字」という言葉が表しているのは、石の板に書き記されたもの(3)。すなわち律法のことです。律法は殺すのだ、というのです。もともと律法は人を生かすものでした。しかし罪びとである人間はそれを守ることができません。たとえば殺してはならない、と命じられていますが、イエスさまは、心の中の罪を問われました(マタイ5・21~)。憎しみを抱くならば殺人を犯すのだ、といわれたのです。怒り、憎しみを抱いたことない人はいないでしょう。そうすると誰もこの律法を守ることができません。結果、律法はことごとく人間の罪を暴き出す道具になってしまったのです。そうして人、つまり他者も自分をも殺すものとなりました。
 それに対して「御霊は生かす」とパウロは語ります。この御霊とは何か。この文章の前に「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です」と語られていますので、御霊に仕えるということは、新しい契約に仕えるということです。
 このコリント人への手紙が書かれた当時は、まだ新約聖書は今日のような形では存在していませんでした。この手紙を書いたパウロも、このコリント人への手紙がまさか聖書になるとは思っていなかったことでしょう。
 新約聖書は、今日のような形での新約聖書を作成しようとして作られたものではありません。パウロや使徒たちが書き送った手紙が、教会にて輪読され、礼拝で読まれるようになりました。イエスさまの生き証人たちが少なくなっていく時代にいくつかの教会で福音書が記されて朗読されるようになりました。教会でなされた説教が、黙示録として記されました。そうした文書(もんじょ)が、やがて結集(けつじゅう)され、今日のような新約聖書となりました。
 ですから、旧約聖書も新約聖書もひっくるめて、文字よりも御霊だ、と言って、聖書よりも霊的な体験だ、というのは、このパウロの言葉の解釈としては間違いでしょう。御霊に仕える、ということは、新しい契約に仕える者ということであり、すなわち新約聖書に現された信仰に生きるということです。ですから礼拝ではどうしても新約聖書が中心になりますし、旧約聖書もそれをダイレクトに受け入れないで、新約聖書のフィルターを通して旧約聖書を読むことになります。それがキリスト教会の在り方です。

 このような新しい契約に仕える者となる資格は、神さまからいただいたのだ、とパウロは語ります。「何かを、自分が成したことだと考える資格」は自分たちにはない、といいます。
 かつては、律法主義の中に滅んでしまうものでした。他者を裁き、自らを苛むものでした。しかし新しい契約、御霊に仕える者としていただきました。義とする務めに召されたのです。

「石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」(第二コリント3・7~9)

 私たちは「なおいっそう栄光に満ちあふれて」いるのです。キリスト者の顔はモーセ以上の輝きで輝いています。

 昨日は本部の畑作業が行われ、今週土曜日予定の芋の苗植えの準備が整えられました。ちょっと用事で団体の納骨堂にいくことになったのですが、ゆっくりとであれば上り下りができました。

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本部には紫蘭が咲いています。