静まりの時 エゼキエル36・25~32
日付:2023年03月22日(水)
25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。
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28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せて増やし、飢えをあなたがたに送らない。
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32 わたしが事を行うのは、あなたがたのためではない──神である主のことば──。そのことをあなたがたは知っていなければならない。イスラエルの家よ、恥じよ。あなたがたの生き方のゆえに辱めを受けよ。」
(エゼキエル36・25~32)
神さまがイスラエルの民をきよめ、祝福を与えてくださる。そのように神さまが事を行われる目的は「あなたがた」すなわちイスラエルのためではないと言われます。衝撃的な言葉だと思います。
今朝の御言葉の前に次のような言葉があります。
22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
23 わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る──神である主のことば──。
(エゼキエル36・22~23)
神さまが事を行われるのは、イスラエルのためではなく、国々が神さまが主であることを知るためである、といいます。イスラエルが汚してしまったイスラエルの神の御名。その神さまの御名を回復するのは神さまご自身である、その目的は世界の人びとが、この神を神とするためである、というのです。そしてこのことを「知っていなければならない」(32)と言われ、「イスラエルの家よ、恥じよ。あなたの生き方のゆえに辱めを受けよ」とまでいわれます。
私たちキリスト者に当てはめるとすると、私たちは罪の中にしか生きることができない者でした。そのような者を主はあわれんでくださり救って下さいました。それは、私たちのためなのではなく、人びとが神を知るためである、というのです。私たちがひたすらすべきことは、自らを恥じ、自らの生き方のゆえに辱めを受ける、ということなのだ、ということなのかもしれません。
私たちは祝福を受けて当然の者ではないのです。にもかかわらず祝福の中に生きる者にしていただきました。そのことを生涯かかって、もったいなく受け止め続けること。それがキリスト者であるということなのでしょう。