静まりの時 第2コリント5・16~21
日付:2023年03月21日(火)
19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
(2コリント5・19~21)
神さまは、キリストにあって、「この世」をご自分と和解させてくださいました。そして背きの責任を「人々」に負わせられませんでした。そうして和解の言葉を「私たち」に委ねられたのです。この和解の言葉を委ねられた「私たち」は神さまの使節である、とパウロは語ります。
主にある者は、キリストの使節、キリストに遣わされる者なのです。どこに遣わされるのか、それは「神さまと和解させられたこの世」に遣わされるのです。そこでだれに和解を語るのか、それは「背きの責任を負わせられなかった人々に」語るのです。
主にある者にとってこの世は、すでに神さまと和解させられています。またそこで語る相手は、神さまから背きの責任を負わせられなかった人々です。いまだ和解させれていないこの世ではありません。またいまだ背きの罪を負わせられている人々ではありません。すでに解放されているこの世にある人びとに向かって和解の言葉を語るのです。
もちろん現実的にはいまだ和解を受け入れていない、というこの世であり人びとなのかもしれません。しかし私たちは「肉に従って人を知ろうとしない」(16)のです。
肉に従って人を知ろうとしないといことは、また「肉に従ってキリストを知ろうしない」(16)ことでもあります。肉に従って知ろうとしない、ということは、霊によって知ろうとする、あるいは愛によって知ろうとする、ということではないでしょうか。そのような知り方こそ本当に現実的な知り方なのです。
キリストを霊によって、愛によって知ろうとすることが、この世を、そして人びとをまた新しく知る、新しく造られた者として知る、という道をひらくのだと思います。信仰を持つということは、この世に対して、人びとに対して、新しい視点を与えていただける、ということなのです。
神さまとの和解を受け入れるということは、「私たちがこの方にあって神の義となるため」、すなわち、私たちがキリストにあって神の義となるため、です。
義となる、それは義と認められる、ということとどのように同じで、どのように違うでしょうか。義と認められる、ということは、本当は中身は義ではないのだけれども、義と認めてくださる、という感じがします。しかしここで語られているのは、義そのものに「なる」ということです。ただ見せかけが義となるのではなく、中身も全き義となる、ということです。
義認の教理は、「擬制(fictio juris)的」なものにとどまらす、聖化に向かっています。義認(JUATIFICATIO)は、「成義」とも訳されるのです。
今日は、団体の定期総会が東近江教会を会場に行われます。諸教会の代議員が集まり共に座して祈ります。重要な案件の審議もあります。どうぞお祈りください。感染症対策で昼食までの短時間での開催となります。