静まりの時 エレミヤ20・11~13
日付:2023年02月07日(火)
しかし、主は私とともにいて、
荒々しい勇士のようです。
(エレミヤ20・11)
共同訳2018では
「しかし主は、恐るべき勇士のように
私と共におられます。」(共同訳2018、エレミヤ20・11)
預言者エレミヤは、神さまが「私とともにいて」下さっているといいます。どのようにいて下さるのか。神がともにいるということはいったいどういうことであるのか。それは「荒々しい勇士」「恐るべき勇士」のように、共にいて下さるのだ、と語りました。
神さまは、愛のお方です。お優しいお方です。しかし荒々しいお方、恐るべきお方でもあるのです。あくまでも義を貫き通そうとされる荒々しいお方であり、罪に対しては容赦しない方、恐るべき方なのです。
この愛と義は一見相反することのように見えます。しかし聖書は、愛と義は神さまにあっては一つであると語ります。私たちが信じている神さまは、愛であるとともに義であるお方なのです。
この愛と義。愛だけれども義である、義だけれども愛でもあるのだ、というではありません。愛そのものが義である、神さまの愛というのは義ということでもあるのだ、また神さまの義というのは愛そのものなのだ、と聖書は語るのだと思います。
その愛と義が明らかにされたのが、主イエスさまの十字架です。十字架において明らかにされたことは、私たちの罪は神のいのちをもってしかあがなうことのできない大きく深いものであること。その罪を贖うために、自らのいのちを犠牲にしようとの神さまのご意志がそこにあること。そうまでして人間を救いたいと願われたこと。神さまは、十字架において愛をもって義を貫き、義をもって愛を成就されたのです。なによりも主の十字架は、神さまの荒々しさ、恐るべきお方であることが明らかにされたことでした。
この神さまの一方的な行動によって、人間に救いの道が開かれました。私たちは、この神さまの圧倒的な荒々しさの前に、ただその愛と義を受け入れるしかありません。イエスさまを信じるということは、この恐るべき神さまの前に、ただ自らの罪を悔い改め、感謝することです。
私たちとともにいて下さるお方が、荒々しい勇士であることを私たちは果たして真実に学ぶことが出来るのだろうか。神さまへの畏れは、どのようにすれば培うこと、育むことができるのだろうか。たぶん、礼拝において、時間をかけてなされることなのだと思います。
先日テレビの、チコちゃんに叱られる、で、子どもはどうして叱られれば叱られるほど叱られることをするのか、というのをやっていました。答えは、叱るからだ、ということでした。前頭葉が未発達の幼児は、叱られると、快楽物質のドーパミンが出て来て、余計に叱られることをしてしまう、というようなことだったと思います。昨日は孫の世話を約3時間ほどすることになりましたが、このことを経験することになりました。声を荒げて叱りつけると、余計に面白がって繰り返し繰り返し叱られるようなことをやってしまうのです。番組では、冷静に諭すことが大切です、ということでしたが、なかなか難しいことです。
神さまへの畏れを培う、養う、といっても叱りつけることで生まれるわけがありません。生まれたとしてもそれは、一時的にコントロールされているだけで、まごころからの畏れではないでしょう。
叱られてもはしゃぎまわる子どもであっても、やがて場の空気を読むことを学び、小学校の卒業式あたりでは、神妙に式に臨むということも起こって来るでしょう。前頭葉の発達によって自らを律するということができるようになるというだけではなく、そうしようという意志もそこに育っているのだともいます。
教会の礼拝が、このような神さまへの畏れ(いたずらに恐怖するということではなく)を培い育てる場となることを、先に救われた者は心しなければなりません。それが喜びとなるような信仰生活が必要なのだと思います。
キリスト教会は、そのためにすでに二千年間、考えてきました。ですから歴史の教会に学ぶことは大切なことだと思います。礼拝堂のデザインや礼拝のプログラムにはすべて神学的な意味があります。礼拝堂のデザインも礼拝のプログラムも、便宜的ではなく神学的に構成され運用されるものです。
便宜というのは、都合よくするということです。このあたりで賛美でもあればいい感じだ、ここで祈るのがみんなやりやすいだろう、説教の前にはもう一曲歌うといい感じ、ここらで起立させるといかにも献身ををあらわしているようで荘厳な感じがする、といった具合でプログラムが決められていく、ということです。これでは、参加者の都合で物事が形づくられていることになり、とても神さまを畏れるという心は育たないでしょう。司会者が、礼拝に備えて心を静めましょう、とせっかく声をかけているのに、隣の人と世間話に盛り上がっているというのはちょっとさみしい感じです。必要な話はしなければなりませんが、「今回の大河ドラマおもしろいね」とか「この間の貴景勝はよかったな」とか、私もつい耳を傾けてしまいそうな話題ですが、神さまを畏れるということからすると、情けないというか笑うしかないというか・・・。あまり鯱張ってはいけないと思いますので、自然な形で、静謐な雰囲気が造られるといいですね。それこそ叱りつけたところで神さまへの畏れは生まれません。(反感を生むことができますが(笑))。そのためには礼拝堂のデザインや礼拝堂での振る舞いと言いますか、とくに講壇の付近における振る舞いは大切でしょう。私たちの礼拝する神さまは目に見えません。しかし、はじめて礼拝に参加した人が、確かにここには神さまがおられる、ということを感じさせるような、そのような人間の目には見えない神さまが見えてくる礼拝が必要なのだろうと思います。常に道半ばです。