静まりの時 ヘブル12・4~8
日付:2023年02月08日(水)
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
(ヘブル12・7,8)
共同訳2018では、
「あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」(ヘブライ12・6,7、共同訳2018)
ここに「私生児」「庶子」という言葉が出てきました。
原文では「ノートス」という語で、岩隈直の辞書によると「(奴隷女や妾から生まれた)庶生(妾腹)の」とありました。また聖書の中ではこの個所に1回だけ使われている単語とのことでした。
私生児と庶子とには微妙な違いがあるようですが、父が分からない子、また母が正妻ではない子。そこには「叱る」ということがなされない、という問題がある、しかし、本当の子であれば、あるいは本当の子のように扱おうとしているならば、かならず「叱る」ということが存在しているはずだ、というのでしょう。
イエスさまを信じる、という信仰は、まことの父をいただくという信仰でもあります。父を「アバ」という、これはユダヤの幼児語ですが、そんな親しみを込めて呼ぶということをイエスさまは教えてくださいました。
聖書の神さまは、愛なるお方ですから、どこか母の愛を想像させます。その愛なるお方を、やはり父と呼ぶのは、そこに「父」がもつイメージ、それは規律とか、義といったものが重ねられているのではないかとも想像します。
まことの「父」である神さまは、私を私生児でも庶子でもなく、まことの「子」として扱おうとしておられる。その証拠が人生の苦しみであり試練だ、というのです。罪と闘って血を流すまで抵抗したことがない、と言われていますが、その闘いは、子であることの喜びに生きるようにとの招きなのだということです。
昨日は、オンラインにて牧羊会(牧師会)が行なわれました。礼拝にはじまり、各種報告、この時期は団体総会の準備などをします。そして研究発表としての発題がありました。とても学びの多い発題でした。同労者の交わりが与えられていることを感謝しました。ご準備くださった先生がた、ありがとうございました。