被造物は切実な思いで

静まりの時 ローマ8・18~25
日付:2023年02月06日(月)

被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
(ローマ8・19)

 被造物、すなわち神さまが創造なさったすべてのもの、それらは、「待ち望んでいる」と聖書は語ります。なにを待ち望んでいるのか。「神の子どもたちが現れるのを」待ち望んでいるのです。
 神の子どもたちが現れる、というのはいったいどういうことであるのか。神の子はイエスさまのことですが、神の子たちといった場合、それはイエスさまを信じて救われる人たち、ということでしょう。
 イエスさまを信じて救われる人たちを被造物は待ち望んでいる、それが私たちの被造物に見る姿だ、というのです。

 教会にさまざまな思いをもって私たちは集います。ある人は願いの実現、ある人は慰め、ある人は病のいやし、人生の問題の解決などなど。その思いが成就するということを、救い、という場合が多いと思います。しかし聖書が語る救いは、罪の赦しと永遠のいのち、です。この罪の赦しと永遠のいのちは切り離すことはできません。罪の赦しのない永遠のいのちは、呪いです。永遠のいのちのない罪の赦しは、一時的な慰め以上のものではないでしょう。この罪の赦しと永遠のいのちが、私の救いである、と知って教会に来る人がどれだけいるでしょうか。おそらく多くは教会に来て、そのことを知るのではないでしょうか。つまり人間は本当の救いとは何かを、もともとは知らないのです。自分にとって何が救いであるのかを知らない、それが人間の状態であり、また人間の悲惨でもあるのです。
 神さまの愛に出会い、自らが罪びとであることを知り、神さまの前に悔い改める、そうして救われた者となる、そのようにして、ただいた救いの力は、その救われた者をきよく造り変えていく、まさに神の子とされていく、それが救いです。
 この救いは、他者の説得や強制力によって実現することではありません。救いが悔い改めを伴うことである限り、それは、自分自身が自律的に行わなければならないことでなのです。ですから教会が語る救いの道は、すべての人に開かれていますが、その道に歩む人は結果的に「すべて」ではありません。あらかじめすべてではない、ということではありません。あくまで結果的にすべてでなくなってしまう、ということなのです。
 それをすべてでなくてはならないとして、教会の門戸を広く広く開いていくと、あるいは「人」に迎合していくと、あるいは何でもかんでも受け入れるということが救いの道に導くのであるとしていくと、結局、本来の救いということが分からなくなってしまうかもしれません。

 ずいぶん以前ですが、何かの記念日で小さなレストランに行ったことがありました。若いシェフが一人で料理をし、お母さんらしき方がフロアーで働いておられました。私たちは、あまり多く書かれれていないメニューを見ながら、おそらくそのお店のお奨めであろうと思われる料理を注文しました。とてもおいしかったし、また段取りよく料理が整えられ、豊かな時間をいただきました。その際、しばらく後に来られたお客さんが、メニューにない料理を注文しておらました。そんなことが出来るのか、とちょっと驚きました。シェフが出て来られ丁寧に対応しておられました。結局、その料理をお客さんの言われたままに出されたので、すごいシェフだなと感心しました。そのやり取りの中で、シェフが、どうしてその料理をご注文なさるのですか、とやんわりと聴かれたときに、私好きなんです、とそのお客さんは答えておられました。まあ、そういうこともあるのだな、と思ったようなことです。しかし、レストランに食事に行く、ということは、そこで驚きや新しい発見をいただくことだとも思いますので、自分の願い通りのことがなされるだけのことであれば、労力は省かれますが、自宅で食事をしているのとそう変わりません。
 おかしな例ですが、教会に来て自分の願い通りのことが実現する、ということであれば、あんまり魅力がないように思うのです。それよりも、自分の知らなかった救いの実現がそこにある、という新しい出会いが、教会にはあることを見失ってはいけないと思いました。 救いというのは、こういうことである、とさまざまに人間は考えますが、じつは神さまだけがご存知なのです。神さまがすでに用意していてくださる救いにあずかること。そんな素敵な救いの実現を、たとえ自分が待ち望んでいなくても、被造物は待ち望んでいるのです。救われた人が起こされるならば、天の万軍に大いなる喜びがある(ルカ15章)、とイエスさまは言われました。それとともに、被造物のすべてが、救われて良かったね、おめでとう、と喜んでいてくれるのです。洗礼式の日は、草や木、風、太陽、星、動物たちのすべてが、喜びを湛(たた)えているのです。

 昨日説教の中ですこし口走ってしまいましたが、この1月に加賀乙彦が逝去されましたので、いま『加賀乙彦 自伝』(集英社、2013)を図書館で借りて読んでいます。その中に「死は恐るべきものなのか。私はそうは思いません」と語っておられます。この文章には前後があって必ずしも聖書的な考え方であるとはいえないかもしれませんが、実感としてこのように語っておられる言葉には説得力があります。もちろん死を恐れるということは人間だけに許されていることなので、大切なことであると思っています。死を恐れるからこそ、よりよく生きようとするのだと思います。今の時間が限りある時間だから大切にしようと考えるのだと思います。しかし信仰をいただいてからいたずらに恐怖すべきものではない、と教えていただきました。教会に通う以前にはこのような恵みがあることを知りませんでした。ほんとに感謝なことであると思います。

 昨日は、定期教会そうかが行なわれました。審議事項がいつもよりも多かったので心配していましたが、予定の審議をすべて終えることが出来ました。皆さんのご協力と配慮にただ感謝です。忌憚なく意見を交換する場面、和やかに語り合う場面、少し時間が長くなってしまいましたが、とても豊かな時であったと、妻とともに感謝しました。新しい年の祝福を祈りつつ。