みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った

静まりの時 2022年6月9日(木)
使徒10・44~48

「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。
 するとペテロは言った。「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。
 それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。」
(使徒10・44~48、新改訳2017)

「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」(44)。

 ペテロが語っていた「これらのこと」とは、34~43に記されていることで、ペテロの説教のことです。ペテロは聖霊降臨の時以来、この説教を語り続けてきました。すべての人はイエスさまへの信仰によって救われること。イエスさまへの信仰とは、その十字架と復活のことである、と。
 するとこの「みことばを聞いていたすべての人々」に、聖霊が下りました。この人びとは異邦人でした。聖霊はどこに下るのか。どのような人びとに下るのか。聖書はユダヤ人、異邦人の区別なく、「み言葉を聞く人びとに」下ると語ります。今日、主の日の礼拝において語られる説教に耳を傾けるとき、そこにご聖霊さまが下られます。
 聖霊が下る、ということが、この個所では「聖霊の賜物が注がれた」(45)、「異言を語り、神を賛美する」(46)ということにおいて明らかにされています。「使徒の働き」では、異邦人宣教の場面において聖霊が注がれるということが「異言が語られる」ということで明らかにされているようです。
 この、異邦人に聖霊が下る、ということが、そこにいた「割礼を受けている信者」、すなわちユダヤ人キリスト者に衝撃を与えます。しかし驚くユダヤ人キリスト者のまえで、ペテロは、このイエスさまを信じた異邦人たちに「イエス・キリストの名によって」洗礼を授けるように命じます。

 この34~43節に記されているペテロの説教は、最初の異邦人への説教です。しかし語られている説教の内容は、それまで語られてきたユダヤ人たちに対する説教とほぼ同じです。違う点は「神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます」との言葉でしょう。

 ユダヤ人キリスト者にとって、異邦人の救いはまさに驚きであり衝撃だったのです。たやすく信じることの出来ない、あるいは受け入れることの出来ないことだったのです。ユダヤ人と異邦人の壁。その厚い壁が破られるところで、異言、という現象が起こりました。神さまの愛の前進は、私たちの理解を超えることです。それは、私たちの言葉の限界、その言葉の改革、新しい言葉が獲得される、ということにおいて前進するのではないでしょうか。(異言ということが、信仰者の間に変な壁を作ることに利用されているとすれば、それは聖書の語る異言ではないようです)。

 異邦人への宣教者として活躍する人物としてパウロは大切な人ですが、異邦人宣教における人びとの苦悩は、このペテロの足跡をたどることでより深く知ることができます。
 私たちも、自分たちの持っている文化、習慣、拠り所としていることが、変革されるとき、不安や恐れに包まれるでしょう。そのようなときに改めて自分は何を拠り所にして生きるのか、が問われます。私を生かしているのはイエスさまだけである、というところに立たされるのです。人生のチャレンジは、本当に大切なものを私たちに確認させられるときであり、それはまた私たちが天の御国に行くための備えを与えてくれるときでもあります。

 昨日は、無事三日間のJEA(日本福音同盟)総会を終え帰宅しました。体調も守られ感謝でした。40年ぶりのなつかしい方ともお出会いすることができました。