聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません

静まりの時 2022年6月6日(月)
第一コリント12・1~3

「さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」
(第一コリント12・1~3、新改訳2017)

 昨日は聖霊降臨の主日でした。礼拝堂のバナーもお花も「赤」に彩られ、そのことが祈念され祝われていました。感謝です。私たちは三位一体においてご自身を明らかにしてくださった神さまを信じています。その第三位格であるご聖霊さまは、私たちにさまざまな賜物を与えてくださいます。その最大の賜物とは「イエスは主です」との告白です。私たちがイエスさまを、私の主、私の救い主と告白することができたのは、この聖霊さまのお働きによるのです。
 コリントの信徒たちはかつては「異教徒」でした。しかしいまはイエスさまを主と告白する者と変えられたのです。
 私たちもかつては異教徒でした。しかしいまは、イエスさまを主と告白する者となりました。それはひたすら聖霊さまのお働きによったのです。そしていまもイエスさまを主と告白する信仰に生かされているのは、ご聖霊さまの働きによるのです。

 異教徒であったときには「誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました」。偶像のところに引かれて行った。私たちを偶像のところに連れて行ったのは、誰でしょう。なにが私たちを誘ったのでしょう。
 初詣に行く人をそこに導いたのは何だったのでしょうか。さまざまな占いに心引(惹)かれて行く人は一体何に誘われているのでしょう。習慣なのかもしれません。しかしいくら習慣だとしても、どこか自分のなかに、自分を誘うものがあるのではないでしょうか。今年も幸せでいられるように。できるだけ災いの道を避けたい、との願いはみな自然に持っているものでしょう。御朱印集めやお遍路さんに出かける方々も、その心に何らかの願いがあって、その自分の願いに誘われて出かけていくのではないでしょうか。この私たちの内にある「願い」が、私たちを「誘う」のではないでしょうか。
 自分の中に願いをもって生きることは決して悪いことではありません。むしろ願い、希望を持たずに生きることは、せっかく神さまがいのちを与えてくださっているのですから、その神さまに失礼なことになるように思います。私たちは生かされていることを感謝しながら、精いっぱい希望を持って生きるべきです。
 しかしこの願いというのは、ちょっと曲者(くせもの)です。願いや希望が、自分勝手な「願望」となると、人も自分も生かす道を破壊していきます。
 偶像は「ものを言えない」のです。私たちはそれをよいことに自分勝手な願望を祈るのです。ものが言えないことをいいことに、好き勝手な祈りをするのです。それでいて言うことを聞いてくれないと、そっぽを向くのです。結局そこでは、自分自身が神になっているということが起こっているのです。願いを、まことの神さまに向けるのではなく、自分自身を神として願いに生き始めると、世界を破壊し、人間関係を破壊し、そして自分自身を破壊してしまうことになるのです。

 聖書の語る救いというのは、そのような自らを神とする生き方から、イエスさまを主とする生き方に変えられることです。そのような告白は罪人である人間には不可能なのです。ご聖霊さまの働きに寄らずには誰もできないことなのです。

 コリント人への手紙第一では、11章までに、教会生活の混乱、聖餐式の混乱が書かれてきました。この12章では聖霊の賜物による混乱、14章では異言による混乱が書かれています。いずれも、賜物そのものが問題なのではなく、賜物を利用して、自分を主としようとする人たちによって引き起こされる問題であり混乱です。どんなに霊的な賜物に見えても、イエスさまを主と告白していない、すなわち自分を主としているということであれば、それは「誘われるまま」の生き方であり、「ものを言えない偶像のところに引かれて行」っているのです。つまり偶像礼拝者なのです。

 いまも時折教会に混乱が起こるとすれば、それは賜物そのものが問題なのではなく、自分の願望による「誘われるまま」の生き方によって、自分を主としてしまうことが原因となって起こることでしょう。本当に聖霊さまによって導かれているならば、そこではイエスさまが主と告白されているはずです。すなわち自分というのは、主ではない、つまり自分を絶対視しない、つねに客観視する、ということがなされているはずなのです。

 イエスさまを主とする。自分を絶対視しない。自分を客観視する。それこそ聖霊さまの豊かな働きの中に生きている証拠なのでしょう。